出会いと別れの原風景
−−社会福祉ゼミナール・10年の記録
野本三吉 著

[『生活者』第162号 非戦2年1月20日]

沖縄大学人文学部福祉文化学科教授
加藤彰彦(野本三吉)

ぼくが横浜国立大学の2年生だった年の夏、友人と一緒に沖縄へ来たことがある。まだ、復帰前でコザの街は緊張感がみなぎっていたし、基地反対の集会も各地で行われており、その時ぼくは、沖縄はまだ戦争の最中にあるという印象をもった。そして、読谷で、当時の村長さんや、ぼくと同年輩の青年たちと語り合うことができた。さらに各地で、沖縄の歴史や現状を熱心に語りかけてくれる人々にもあった。その時以来、ぼくの中で沖縄は、特別の意味をもつようになった。大学を卒業して、ぼくは小学校の先生となり、夏には沖縄へ来て、子どもたちにセッセと手紙を書いた。数年後、ぼくは教師をやめ、リュックを背に日本中を4年余り放浪することになる。北海道から始まった旅の最後のしめくくりは、またしても沖縄になった。

この時、はじめてぼくは、沖縄の神人(カミンチュ)と出会い、一緒に数か月、生活を共にさせてもらった。この時の体験は、新たな南島文化の発見となって、ぼくの中に蓄積される。

30歳の年に、ぼくは横浜市の福祉職場の職員となり、日雇い労働者(ドヤ街)の生活相談と、児童相談所の児童福祉司の仕事を20年間やることになった。ますます、民俗学や心理学、人類学や考古学への関心も高まり、日本各地やインド山麓への旅にも出るようになる。

そうした体験の中から、社会福祉というのは「暮らし(生活)」学なのだという実感をもつようになった。もっともっと学びたくなって、慶応大学の大学院や、都立大学、社会事業大学などに通い、心理学、人類学、福祉学などを総合した「社会臨床学」を構築したくなってきた。

そんな折り、横浜市立大学から声をかけられ、1991年、49歳の年に、思いもかけず、社会福祉の教員として大学の教壇に立つことになった。それから約10年、夢中で学生諸君と、また地域の方々と学んできて、ふと気がつくと、いつの間にか、ぼくも60歳を迎えることになった。そこで、横浜市立大学でのゼミナール10年史を、極めて私的に綴ったのが、この本である。大学とは何か、福祉とは何か、そして「いのち」とは何か、最後に「暮らし」とは何かを、体験を振り返りながら考えつつ、書きながら、結局、人生は「出会い」であるという結論に到達してしまった。

「出会い」と「別れ」、心ときめかし、また悲しみに震えながら、ぼくらは人や、風景や出来事に出会い、そして別れていく。この本を書き上げた時、ぼくは小さな決心をしていた。それは、沖縄へ行こう。沖縄と出会いたいということであった。昨年10月、ぼくは、横浜市立大学に別れを告げ、沖縄大学の教員となった。したがって、ぼくにとってこの本は忘れられないものとなった。

なお、野本三吉とは、ぼくのペンネーム。どこかで出会ったら、ぜひ話したいな。

※この原稿は、沖縄大学の『図書館報』(36号)の巻頭に、<私の新刊紹介>という欄があり、そこに書いたものです。いま、図書館委員会の委員になっているので、指名していただいたのだと思います。いよいよ、本格的な沖縄暮らしが始まります。ユックリやっていきます。


[本のたんぼ/農業協同組合新聞 2003年2月20日]

筆者の本名は加藤彰彦。後書きにその明記がないが本文で分かる。1941年横浜市生まれ。現在横浜市立大学国際文化学部教授とある(2002年10月以降沖縄大学教授に転学)。さてどんな学問か。副題が大学での「社会福祉ゼミナール・10年の記録」だから、おおよその見当はつく。つまり「社会福祉」とか「ソーシャワーク」である。

本書の構成を紹介しよう。第1章「大学とは何か」、第2章「福祉とは何か」、第3章「いのちとは何か」、第4章「魂とは何か」。これは定義論の類ではないし、学説解説でもない。つまり徹頭徹尾、社会福祉実践の記録なのである。ではどうして学園で実践が学問追求と両立するのかとなろう。

著者が1991年3月31日、20年近い横浜市職員勤務を辞め、翌日横浜市立大学教員になるところから本文が始まる。その前、1972年4月1日、横浜市民政局勤務になった。ではその前は? 

放浪である。ではその前は? 小学校教員。なになに。かくてこの福祉課題はどこまでも、これら体験がバックになる。

「原風景」という由縁だ。だから沖縄放浪体験がある。横浜市職員としての寿生活館体験がある。そこはホームレス問題の集約場である。社会福祉のどん底の現場と言っても良い。だから職場同僚は「同志」である。こうして生きる現場のすべてが、固有名詞のある息づかいで、記録される。難解な「いのちとは何か」が一挙に分かりやすい。ソーシャルワーカー同志の実践と死が多く登場、現実そのものだから。

こうして、そもそも社会福祉の範囲がつかみづらい。すべて公共団体の仕事か。一つの例だが、「日本社会臨床学会」のことが触れられる。公的社会診療資格取得を主張する「日本臨床心理学会」から分かれて、1993年創立したのだという。要するに「社会」の広がりの見方の違いなのだろう。著者は新学会に依って「横浜社会臨床研究会の記録」(1993〜1996年)を公表している。公共団体が係わっていない「社会臨床」分野が如何に多いか。ため息が出る。率直に大変だなあと思う。

では協同組合とりわけ農協が、この分野で可能なことは何か。とりあえず公的介護保険の受け皿として福祉事業を始めた。多くの事業課題が事例報告として出されつつある。農協だからこそできることとして、有意義でもある。では公的介護、介護保険対象領域以外の広い社会福祉分野をどうするか。そこに協同にとっても大事な「いのち」とか「魂」があるからだ。例えは痴呆ランク(I〜Mの7段階)と要介護度の関係。義理の母の経過を見てきただけに困難さが分かる。国家関与以前の全的人格投入が求められるからだ。だから著者は「力を合わせて生きてゆく他はない」という。JAの事業課題はそこまで進められるだろうか。

(財)協同組合経営研究所
 元研究員 今野 聡


 [『望星』 2002年10月号]

 五年間小学校教師を務めた後、日本列島、沖縄、韓国を放浪。一九七七年から横浜市民生局職員として寿生活館や児童相談所の福祉司に。さらに九〇年代には異色の教員として横浜市立大学に勤務。
 たえず一人の生活者として地域の人と「生命の共鳴」を求めてきた著者。そして本年からは沖縄の大学に転じるのと同時に、ヤポネシアの島々を巡る旅を始める。社会福祉ゼミでの十年間の生活記録と同時に、優れた大学教育論である本書は、いわば新たな旅立ちの宣言本といえる。

[読書人 2002/8月30日]

学びのスタイル
常に現場と格闘する中から
テーマを掘り下げ、その記録を刻みつづける
――塚本有美(ノンフィクション・ライター) 

筆者は、91年から社会福祉論やソーシャルワーク論を担当する教員として横浜市立大学の教壇に立ってきた。本書は、大学という現場での10年余の記録である。

重要視されるのは、ゼミの学生一人ひとりが研究テーマをしっかり定め、それぞれのフィールドと関わりながらテーマを深め、卒業論文へと結実させることである。そのため、多くの学生たちが社会福祉実践、ボランティア、社会活動などに継続的に参加することになる。

こうした「学びの原風景」に接してあらためて思うのは、現代の等身大の若者たちが渇望しているのは、自分が本気で打ち込める生きがいとしてのフィールドではないか、ということだ。そのフィールドを教員や大人たちが外側から与えることはできないけれども、手がかり探しをバックアップしながらフィールドへと送り出すこと、自ら現場と格闘する後ろ姿を学生たちに見せつづけることはできるのだということを、本書は語りかける。(一部を引用)

本の詳細を見る→ <ISBN4-88008-226-0

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