『禊の塔―羽黒山五重塔仄聞』を読む
歴史小説の楽しみの一つは、その時代の音を聞き、生きた人たちの息遣いに
触れることである。たとえば雪道を踏む沓の音、職人の技や女たちの端布縫い
の手の動き、通りすがりに交わす言葉と慈しみのまなざし……。久木綾子氏の第2作『禊の塔―羽黒山五重塔仄聞』は、そんな行き届いた細部を重ね、中世の東北の村の音や息遣いを伝えてくれる。
久木氏の作品は、歴史的事件の顛末の目新しさを競う小説などとはもっとも遠いところにある。侍夫婦と若い従者の三人がそろって自刃し、生後間もない赤子が残されたという22年前の出来事が事件らしいといえば言えるが、その真相が明らかにされるわけではない。一人ひとりの登場人物に寄り添い、その運命と足並みをそろえるように、ともに歩き、立ち止まる。前作の長編『見残しの塔―周防国五重塔縁起』と同様、力のみなぎった構想力によって、瑞々しい物語世界が紡がれる。男や女たちは、実際、そういうふうに生きたであろう、それ以外の生き方はしなかったであろう、と思わせるところがある。
物語は、十四世紀半ば過ぎの応安年間(南北朝期)、山形・庄内平野の東に連なる修験の霊地、出羽三山羽黒山を舞台に、瀧水(りゅうすい)寺の国宝、五重塔の再建を描く。五層の屋根の柿葺きに命をかける壮太ら若い葺師職人を中心に、山の水から塔を守るため黙々と石積みの排水溝を造る山伏浄海、羽黒修験の大先達覚道、肝煎りの十右衛門、塔建設を指図する副棟梁の神前幸正、それに覚道の孫で十四歳の少女チトセ、二十二年前の自刃事件で十右衛門夫婦に育てられた十和、壮太の姉加代、チトセと同い年のトシら庄内の女たちが配される。
「雪は『もつ、もつ』と降りはじめ、『もっつ、もっつ』と地に積る。天からの下されものなのである」―雪深い北国の物語世界へ読者を誘う予感に充ちた書き出しだ。冒頭に近く、雪一色に染まる雪原(ほどわら)で遭難しかけたチトセが、幼なじみの壮太に拾われる印象的な光景にぶつかる。「爺っちゃのどごさ、行ぐ」と息も絶え絶えのチトセに、「行げるわけねだろ、阿呆!」とチトセを背負う壮太。「阿呆」の言葉にいとしさが滲む。鼻筋が通り、おちょぼ口で、「まるで遠野の家神に祀っている木彫りの“馬っ子”」のようと可愛がられたチトセが、痛切きわまりない役割を振り当てられようとは。
「葺き上げた屋根の、なめらかな光沢が匂い立つ」ような姿を現して以来六百年余、羽黒山五重塔はいま、「傷ついた古武士のように蒼然と厳粛」(「あとがきにかえて」)に建つ。その再建に挑んだ職人たちの仕事ぶりが読みどころの一つ。壮太は葺師の父が残した見積書を懐に、父が果たさなかった五層の屋根にのることを決意する。そのための修業を積んだ。ひと冬中、杉丸太から何万枚もの気の遠くなる木羽(こば)づくり、それを美しく葺き上げてゆく過程は密度のある描写が重ねられ、葺師の作業を目の当たりにする迫力がある。「(木羽の)束を崩しながら、葺き足をずらして板を重ね、竹釘を口に放り込み、舌の先でまわしながら釘の先を唇の上から出し、指でつまんで、瞬時に木羽を打つ。…職人の作業はまったく停滞がない」。竹釘で口中に渋みをが溜まると、屋根の上につばを吐く。屋根から下りると、キハダの樹皮を小さく切り、それを舐めて炎症を治す。そんなふうにして技術は継承されるのだ。
生母の形見である小袖の片袖のいきさつを知った十和が、その片袖の匂いに母と、母が抱きしめていた赤子の自分との「二人の香」を嗅ぎ、出生の秘密に苦しむ哀切な運命も作品の大きな柱だ。こちらも母の顔を知らない山伏浄海に、「私がどこから来たのか、教えてくださいませ」とすがる十和、「人間はわからぬ、まして氏素性のことなど」「私は誰ですかと、聞いて歩くより仕方ねな。自分の足で―」と突き放す浄海。二人が交錯するとき、育ての親も浄海もチトセも、周囲のすべてを裏切る十和の出奔が準備され、物語は疾走する。
龍神の住む龍ケ瀬、その対岸に瀧水寺を仰ぐ。九輪上げの作業が始まり五重塔完成が間近いころ、稲妻、雷鳴、豪雨が塔を襲う。龍神の怒りが人身御供を求めているのか。それとも老修験者の覚道と若い浄海の験比べが火花を散らしているのだろうか。
「私が生贄に」と急ぐ十和を、チトセは計略をめぐらし救ったうえ、身替わりとなって龍ケ瀬に身を躍らせる予想もしない結末へと導かれる。その瞬間、爺っちゃの覚道がチトセを掬い上げ、ともに塔の相輪の上へと飛翔する。激しい落雷の中、浄海も忽然と姿を消す。五重塔は守られた。
満月が谷を渡るとき、壮太と加代の姉弟は、若い行者と老いた行者が黙々と石積みの排水溝を仕上げているのを見る。そして二人のそばを離れない白無垢の娘、チトセだ。「行くな。お前が好きだったなさ。分ってだだろうが」と叫ぶ壮太の声をチトセは聞いただろうか。
ちょっと民話の味わいがあるといえば、作者は不満だろうか。チトセはいま、爺っちゃと浄海のそばにいるだけではない。旅立った十和のそばにも、好きだった壮太のそばにも、壮太を奪ったトシのそばにも、だれのそばにもチトセは一緒にいる。作者は「チトセ」に東北の「座敷わらし」をイメージしたと洩らされたことがある。終章で胸を詰まらせたのは、民話が内包する何か「懐かしさ」みたいなものに触れたためだろうか。久木作品が再読を促してやまない秘密のように思われる。
庄内言葉のすばらしさも見落とせない。語尾の「のう」、「さけ」、「なや」、ごしゃがれる(叱られる)、しえば(それだったら)、みじょけね(かわいそうな)、もっけだのう(ありがとう)といった地言葉は(多少アレンジされているにしろ)、じかに聞かなくても、その温もり、柔かさが耳に伝わり、日本語の豊かさに触れる思いがする。
羽黒の参道に、いまも行人塚は存在するのだろうか。修験の先達覚道が、通りがかりの行人塚で必ず手を合わせるのは、自らの手で遺骨を葬ったあの侍夫婦と従者への祈りだけではない。山にたどり着き力尽きた参拝者や行者ら、無数の名も知れない人たちへの供養のためである。『禊の塔』はまた「供養の塔」ともいえるだろうか。
著者について
吉田伊佐夫(よしだ・いさお)
1940年奈良県生まれ。文筆家・『月刊 大和路ならら』執筆メンバー。元産経新聞論説委員兼編集委員。 |