出会いと別れの原風景/月報より

<出会い >から <学び>へ 児玉 亮

福祉の原点  川上芳香

生き方の魅力 藤田慎一

「らせん」を通してつないでいくもの 小林まどか


<出会い >から <学び>へ
児玉 亮

 僕が加藤先生に初めて出会ったのは、大学一年のときでした。様々な分野の現場で活躍されている方から直接講義を受けるという形式の授業に、当時横浜市南部児相の福祉司であった加藤先生は講師としてやってきました。話の内容はもうあまり覚えていませんが、先生が児童福祉司としてかかわったある一人の子どもの再生を巡る話でした。先生の語り口に引き込まれた学生の多くが涙していましたが、僕自身は「こんな物語が本当に福祉の現場に存在するのだろうか?」という不思議な感覚で話を聞いてました。
 そして翌年、助教授として横浜市大に招かれた加藤先生と二度目の、そして僕にとっては決定的な出会いをしました。当時ジャーナリストを目指していた僕は、社会学のゼミをとるつもりでいましたが、日頃の怠学が原因でそれを選択できず、仕方なしに加藤先生のゼミを選んだのでした。 母が福祉の道で生きていることもあり、社会福祉というものを敬遠してきた僕でしたが、先生の包み込むような人柄に甘えて、ゼミには出続けました。ただ、これという目的意識がなかったので、あとはもっぱら大学の探検部の活動に没頭する毎日でした。
 そんな僕をまるで見透かしたかのように、先生から川崎市中央児相の一時保護所の夜間指導員の仕事をやらないか、と声をかけられました。アルバイトと現場での体験が一度にできる、という安易な考えで臨んだ夜間指導員でしたが、そこで様々な子どもたち、現場の職員の方々、夜間指導員の仲間と出会い、僕の価値観は大きく揺り動かされました。それ以来、僕は自分のフィールドを子どもと決め、部活動と同じくらい、夜間指導員の仕事にのめり込みました。特にそこで出会った仲間とは、仕事を越えたつきあいのなかで、同人誌などを通じて、厳しい現実に流されそうになる自分を奮い立たせてもらってきました。
 ゼミでも素晴らしい仲間とたくさん出会いました。毎年のゼミ合宿で圧巻だったのは、仲間の一人一人が自分史をさらけ出しながら、それを見事にそれぞれの研究課題に織り込んでいくさまでした。夜を徹して行われるその儀式(まさにイニシエーションだったと思います)に、先生は必ず最後まで立ち会ってくれました。
 思えば、大学時代、講義をうけながら机にむかって勉強した時間よりも、はるかに多くの時間を現場で学びました。児相の一時保護所では、子どもとの関係に悩んで夜間指導員の仲間とノートや勉強会で互いを励ましあい、ゼミ合宿では仲間と酒を飲みながら福祉観や人生論を語り、大学の授業が終わってから行われた横浜社会臨床研究会は、現場の方々とテキストや現場実践について夜遅くまで意見を交わし、先生から紹介してもらった雑誌『ひと』への執筆では、編集者の方々との厳しいやりとりのなかで、自分史を辿りながら己の価値観の成り立ちを知り…。それらすべてを <学・として承認してくれたのが先生でした。実際、探検部の仲間とカナダのユーコン川をカヌーで下ったことをゼミのなかで報告したこともあります。「生きる場からの発想」そのものがそこに息づいていました。
 そして、その全てが素晴らしい仲間や偉大な実践者との出会いであり、また、内なる自分との新たな出会いでした。
 大学卒業後、僕は学童保育指導員を経て児童養護施設の職員となりました。施設での子どもたちとの暮らしももう五年目です。ときには子どもとぶつかり、苦しみ、迷いながらもなんとかここまでやってこれたのは、子どもたちとの出会いのひとつひとつを、互いにとって怩「い出会い掾にしたい、という思いがあったからなのかもしれません。僕が先生からつながる様々な出会いによって今、生かされているように。
 先生はこの四月から沖縄に行かれるとのこと。とても自然な流れのように感じる一方で、「市大の加藤彰彦」との出会いが起点となっている僕には、ひとつの時代の区切りを思わざるを得ません。僕も改めて自分のやりたいことにきちんと向き合っていかなくてはならないなあ、と焦りに似た気持ちを感じています。

(1994年度卒業/こだま・りょう/児童養護施設職員)

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福祉の原点
川上芳香

 小さい頃の私は、親や教師にとって「よい子」だった。「よい子」は一度演じると抜け道がない。ある日、ひどく人を傷つけた私は、全ての人にとっての「よい子」になることが自分の使命だと思った。つまりそれは「人のために尽くす人生」であり、職業でいえば「福祉」だと考えた。そんな私の悲哀な福祉観を、見事に打ち破った人が加藤先生である。先生との出会いが、私の価値観・人生、全てを翻した。今回の刊行にあたり、生きる意味を教えてくれた先生への感謝の気持ちを込めて自分の半生を語りたい。
 私と先生との出会いは、大学二年生の社会福祉論の講義である。教壇に立つ先生は、現場から離れているのに、熱い心で寿生活館や児童相談所の経験を語り、人は人との間でしか生きられず、それを教えてくれたドヤは「福祉の原点」と訴えた。当時の私は、福祉とドヤが繋がるイメージをもてず、ただドヤが暗闇にしか見えなかった。先生と関わりを深めていくなかで、生き方にしだいに魅了され、積極的に外に出るようになる。それは自分に自信が無いゆえの行動力であり、空っぽの自分を経験という名のもとに必死に埋めようとしていた。結果としてその行動力が、私の固定した「よい子」像を崩していき、そして多くの人と出会うなかで、「人間」自身に興味を抱いていった。
 卒業を控えても希望の職業がなく、卒業論文では自分の未来を見据えて、二人の女性のライフヒストリー(個人史)を書き上げた。その中で、女性が人の関わりや過程の中で、自分の職業をどのように決定したかに注目した。文章化することで、一人の人間に関係する縮図が見え、先生が強調する「人と出会うことの大切さ」が何となく分かってきた。
 卒業後、私は地域の人と関わりを求めて公共のスポーツ施設に三年間勤務。だが、その間も「ドヤは福祉の原点」と語る先生の言葉が気になった。「福祉」の意味を知るには、その原点といわれるドヤを知りたいと思い、横浜市の福祉職に転職。そして命じられた勤務先は中区の福祉事務所生活保護課(現在は中福祉保健センター サービス課保護担当に名称変更)。まさしくその場所は、ドヤが立ち並ぶ寿地区があり、先生が三十代の時に情熱を注いだ寿生活館も存在する。実際に赴任してみると、寿地区は活気に溢れた労働者の姿はなく、高齢化と不況のあおりで「福祉の街」に変貌していた。寿地区の住民の大半が生活保護を受給し、生活保護課だけで役所のワンフロアーを占領。今では役所が寿地区の人々で溢れている。酒に酔ってフロアーに寝込んだり、暴れたりする光景に当初は驚いたが、今では愛嬌と感じる余裕すらある。
 このような環境で一年過ごし、福祉の仕事について思うことは、自分自身にある福祉観が日々問われていることである。実際に家庭を訪問すると、見えていなかった世界に気付く。被保護者たちは、今も現存する偏見・差別を理不尽に受け、社会に引け目を感じながら目立たぬように生活している。話をしても、彼らの人生は私達と何ら変わりはなく、むしろ苦労・困難に直面しながら自分の弱さ・脆さと向き合っていた。暗闇の中でも必死に生きる彼らの姿は、光りの中だけにいては決して見えない世界であり、自分の福祉観が貧困であると、彼らの豊かな想いに気付かない。また、ケースワークでは、まず相手に語ってもらい、その問題の原因を探り、気付かせる作業が必要である。だが、彼らの人生を通して、ワーカー自身の生き方を見つめる機会も多く、お互いにとって「気付き」の作業を繰り返している。そう思うと「福祉の原点」とは暗い世界に光りをあて、受け止め、気付きあう作業なのか…。
 まさしく福祉とは、人が生きていくための原点であり、先生はその世界への案内人として、今後も様々な人を導いていくのであろう。

(1997年度卒業/かわかみ・よしこ/生活保護ケースワーカー)

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生き方の魅力
藤田慎一

 僕は野本三吉こと、加藤彰彦先生のことを、陰でこっそり「師匠」と呼んでいる。第三者に加藤先生の話をしようとする時、「大学時代の先生」や「恩師」ではどうしても言葉足らずな感じがしてしまって他に納得のいく言葉が見つからないのだ。かといって本人は、「師匠」などと呼んでもらって決して喜ぶ人ではなく、だからこそ本人には内緒でこっそり「師匠」と呼ばせてもらっている次第なのである。いつからだろうか? 思えば、僕は「加藤先生の弟子でありたい」と思い続けてきたのかもしれない…。
 加藤先生と初めて出会ったのは一○年前、僕が大学一年生の頃だった。初めて受けた講義で、先生の自分史を聞いた。柔道で死にかけたこと。それをきっかけに生き方が変わったこと。教員時代、放浪、沖縄、寿町、児童相談所…。ハチャメチャな教授だと思った。そしてその瞬間、社会福祉に全く興味のなかった僕が、迷わず加藤先生の社会福祉ゼミナールに入る事を決めたのである。
 ゼミに入った僕は大いに刺激を受け、自分の世界を広げて行った。障害当事者との衝撃的な出会い、障害者介助のボランティア、映画『さようならCP』の上映会運営、寿町の一時宿泊施設での夜間バイト、休学、阪神・淡路大震災ボランティア、「やさか共同農場」での農業体験、震災に怩ツながり掾を学ぼうと企画したシンポジウム「つながりをみえるものに」…。しかし、どんなに自分で新たな世界を切り開いたと思っていても、新しく出会った人、興味を持った事柄、感銘を受けた本、それら全てが辿っていけば必ず加藤先生に突き当たった。結局、僕は先生の掌の上で動き回っていたに過ぎなかったのだ。そして、先生はそんな僕をいつもにこやかに見守ってくれていた。
 ゼミ合宿で酔っ払って、恋の相談をする僕に、先輩たちと一緒になって真剣に相手をし、自分の恋愛話や、奥様との出会いまで語ってくれ、休学中、今後の身の振り方を相談した時などは、黙ってお金まで援助してくれたことさえあった。その全てを包み込むような包容力に時に怒り、時に苛立ちながらも、心の奥底で僕は完全に甘えていたのだ。
 大学を卒業と同時に就職しテレビ番組の制作会社に入った僕は、それと同時に『たね』という個人誌を始め、仲間たちと勉強会のような集いを創った。しかし、そんな卒業後の動向でさえ、先生の影響は拭い切れない。個人誌を始めたのも、先生の個人誌『生活者』に影響を受けたからだし、勉強会を創ったことも、健康を害するほどのハードスケジュールの中、研究者、執筆者としての仕事をまっとうしながら、しっかりと教育や福祉の現場の只中にいるという先生の、「思考」と「実践」の両立に憧れたからに違いない。そして、テレビ・ディレクターという職業を選んだ事でさえ、先生の取材者、記録者、表現者としての姿を見せてもらってきたからなのだ。今でも行き詰まった時は必ず先生の顔が浮かんでくる。気が付けば考えているのだ。
「加藤先生ならどうするのだろう?」
 僕を惹きつけたその力。それは先生が有する、強烈なまでの「生き方の魅力」だった。大学は卒業した。しかし、加藤ゼミは未だに卒業できていない。出会ってからこれまで、生きる指針としてありつづけてきた加藤彰彦先生。
 師匠、この借りは一生返せそうにありません。

(1996年度卒業/ふじた・しんいち/テレビ・ディレクター)

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「らせん」を通してつないでいくもの
小林まどか

 卒業論文を書き終えた時、「すべてやり終えた」という感慨に変わり、「ここからが始まりなんだ」ということに気がついた。
 私が選んだテーマは「ライフヒストリー」。個人の内面や病理に深く食い込んでいく心理学などとはやや勝手が違い、「個人そのもの」にスポットを当てて、その人生史を丁寧にたどっていく手法だ。ライフヒストリーの技法でもっとも特徴的なことは、「ミクロからマクロを読み解く」ということではないかと理解している。
 私は、横浜市でソーシャルワーカーとして働く女性について取り上げた。生活保護や児童相談所のワーカーを経て、一市民として市民活動の中で高齢社会を支えていこうとする彼女自身の考え方、さらにこれからも学び続けようとする彼女の資質に共感したのがきっかけだが、彼女の出自である「沖縄」という土地柄に惹かれたのも大きい。
 かつて「万国津梁」の国と呼ばれ、ヤマトとアジアの掛け橋として栄えた琉球王国・沖縄。第二次世界大戦の中で、日本で唯一地上戦の舞台となった沖縄。そして戦後、アメリカと日本の間で翻弄される沖縄。同じ日本でありながら、政治的に社会的に経済的に、我々よりもはるかに「痛み」を強いられている沖縄。それなのになぜ、沖縄を訪れると彼らはあんなにも明るく大らかで、希望と強さに満ちあふれているのだろう。私が大学三年生の夏(一九九八年)に加藤ゼミ研修旅行で訪れて以来、ずっと魅せられている。
 そんな「沖縄」をルーツに持つ女性のライフヒストリーを追っていくうちに、彼女が学生運動に深く関わってきた事実を知る。一九四五年生まれである彼女は、私の父親と同じ年齢。そして私の母親は彼女と同じ東京の地で、同じく一時代の旗手として体制や権力と闘ってきた。日米安保闘争や三里塚闘争、そして学生運動のクライマックスとも言える東大闘争という闘いの中で、彼らは学問的・精神的に熟考することを覚え、独自の哲学や思想を築き上げていった。田舎育ちの私は、「うちの両親は何だか難しいことを言うなぁ」などと思っていたが、ライフヒストリー調査によって私が受けてきた教育の意味、両親の思想がより具体的に見えてきたような気がする。
 ライフヒストリー調査を経て、一人の個人史には社会、歴史、文化、流行、そして人間の発達論まであらゆるものが集約されていることに気づかされた。さらにもっと大きな発見もあった。それは「人間はらせんのようにつながる関係性の中で生きている」ということ。いのちは血脈として受け継がれ、思想や生き方は人間そのものの「生」から引き継がれる。同時代を生きる個人、過去の歴史上を生き抜いてきた偉人など、自分が題材として選択した「個人」は、自分自身の問題意識と密接に関わりあい、今後の生き方の指標としても大きな影響力を持つことだろう。そして、今後は自分自身がそれを生き方として「伝えていく」義務があり、さらにはそれを自分の職業にしたい、と思うようになった。
 現在、私は「伝える仕事」に従事している。大学を卒業して二年間、ミニコミ紙の記者として地域に出て、街記事の取材や広告営業に駆け回った。市民活動に関わる新しい動きや、営業を通して地域経済の仕組みについて広く多くのことを学んだ。ゼミで得た親友と、『らせん』という個人通信を創刊させた。そして、この春からはより深く一つのことを伝えていこうと、「住まい」を通して環境(里山の再生など)やライフスタイルについて考える、季刊の雑誌で働くことになった。
 情報が氾濫するこの現代社会の中で、何を伝えていくべきなのかを選別する目。徹底した取材を通して情報の源にある「何か」と読者をつなぐ役割。自分がこれから編集者としてどういう立場で仕事をしていくか、まずはいろいろなものを見て、さまざまな経験をして、足場を固めながら探っていきたいと思う。

(1999年度卒業/こばやし・まどか/雑誌編集)

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