コラム/高橋豊子



ああ

言葉の旅スケッチ(1)

アイルランド

[2002/06/18]

 ここ数年、アイルランドの作家アリス・ティラーさんの作品を翻訳している。その縁で、アリスさんを訪ねたときには、ついでにアイルランド各地を回ってくる。
 三年前に西海岸のリムリックという町へ行ったときのことだ。夜、ホテルのパブで黒ビールを飲んでいると、周囲にいた地元の一団が話しかけてきた。選挙の戸別訪問の途中なのだという。訴えているのは、犯罪撲滅と並んでアイルランド語の復権。アイルランドに固有のこの言語、比較的よく残っているといわれるこの地域でも、まともに使える者は十人に一人もいないのだと言う。
 ケルト語の一種のアイルランド語は、憲法で第一公用語と定められている。道路標識や地名表示は英語と併記され、公務員試験の科目にも含まれている。しかし、日常生活で使われるのは英語が圧倒的。この運動員も 私には英語で話している。
 英語は、イギリスによる植民地支配とともに広まった。独立後、アイルランド語復活政策が採られたが、逆転はもはや不可能である。英語が通用することが、いまや海外からの企業誘致の謳(うた)い文句にもなっている。ベストセラー作家のアリスさんが書くのも英語。アイルランド語は単語や短い語句としてだけ現れる。
 国内でさえこうなのだから、国外には話せる人はまずいない。
 アリスさんのご主人のゲイブリエルさんは、アイルランド語が話せ、そのことを示すバッジをつけている。ご夫婦でイタリアヘ行ったとき、道を尋ねようにも言葉が分からなくて困っていた。そこへ同じバッジをつけた男がやってきた。これ幸いと話しかけてみたが、やっぱりアイルランド人でだめだったよ、と笑っていた。
 それでも、アイルランド語は人々の大切な心の拠(よ)り所になっている。運動員の一人が私のために詩を暗唱してくれた。仲間たちは「どうだ、きれいだろ」と自慢した。

本コラムは『中国新聞』2000年8月24日から9月4日まで連載されたものの再掲載である。

*著者(たかはし・とよこ)は、アリス・テイラーのシリーズの翻訳者。フリーの翻訳・編集者。


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