「邦人給仕銃殺問題-愛蘭に起れる事件」2 |
[2003/04/07] |
小西清之助がジョーンズ家で働き始めたとされる1903年(明治36年)は、夏目漱石がロンドンでの2年間の留学を終えて帰国した年に当たる。その頃のイギリスは、日本から遙か遠い国だった。漱石がロンドンでの孤独な留学生活中に精神を病んだことはよく知られている。
イギリス行きの旅券発行数でみると、1903年はわずか50件。1902-04年の3年間の平均でも75件でしかない。在留者となると、ヨーロッパ全体で468人(1904年)。日本人移民がすでに多数渡り、排日の機運さえ高まり始めていたハワイやアメリカ本土とは比べようもない。
そのイギリスまで、小西はどのようにして行き着いたのだろうか? 漱石の場合、1900年9月8日に横浜港をドイツの汽船で出発したあと、上海、香港、シンガポ-ル、コロンボ、ナポリを経由し、ジェノバで下船、ここから汽車でパリに入り、1週間滞在してパリ万博を見物し、10月28日にロンドンに到着した。
小西も漱石同様、日本から欧州航路でイギリスへ向かったのだろうか? ジョーンズ氏かだれか裕福な主人に伴われていれば、それも可能だったかもしれない。それとも、ハワイ、北米などへ移民として出国したあとイギリスへ向かったのだろうか?
中国や東南アジアが足場になった可能性もある。その頃、国境管理は今ほどきびしくなかった。中国へ
は旅券なしで旅行できたという。中国、英領香港、ポルトガル領マカオ、ボルネオ島、マレ-半島、フィリピンなどには多数の日本人が住んでいた。そうした、いわば”近場”への小さな一歩が、小西を遠い西の国まで長旅に誘うことになったのだろうか?
どこからどこをどう旅したのか――彼はやがて、当時イギリス領だったアイルランドに忽然と姿を現す。
*著者(たかはし・とよこ)は、アリス・テイラーのシリーズの翻訳者。フリーの翻訳・編集者。
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