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 関 沢 英 彦

「ここにいる」から始める

 そろそろジョギングをしても汗みどろにならない季節になった。まだ汗ばむがその程度なら、図書館前の自販機でスポーツ飲料を飲むうちにひいていく。これならば、図書館に入っても許されるだろう。

 ジョギングの後に、そのまま図書館で科学雑誌か小説雑誌を読む。秋口にはいるとその習慣を復活させる。ガン発生の機序は定説以上に複雑であるといった科学の話をつまみ食いした後は、何編かの小説に目を通す。

 そんな折に出会ったのが、保坂和志という名前だった。保坂さんのホームページで出版年を確かめると、かなり初期から読んでいることになる。

 そのホームページに、以下のような本人の弁が載っている。「『何かいいことない?』という決まり文句に対して、私は『そんなもんないんだよ』と思っていた・・これは決して否定的な気分ではなくて、“受容”という感じだ。 『どうしていいことがなきゃいけないの? ま、いいじゃん、いまのままで』というのが私の気分だった」(http://www.k-hosaka.com/)。

 保坂和志の名前を見ると、書棚に思わず手が伸びていた理由がここにある。「ここにいる」ことを受け入れたところから、彼の思考が回り始める。そうした性分に親しみを覚えたのだろう。

 今回、新宿書房の村山さんとの共同作業の中で生まれたエッセイ集『生活という速度』にも似たような時間が流れていることに気づく。高速化する社会に対して、いま、「ここにいる」という日常のリズムを大切にしようではないかという思いである。

 1998年にインターネットの世帯普及率は1割を超えた。同年、日本の自殺者数は3万人の大台に乗る。経済環境の悪化という要因が働いていることはいうまでもない。だが同時にインターネットに象徴される高速度で疾走しながら、競い合う社会から振り落とされていった人も多いのではないか。

 書店で本の表紙カバーをちょっとはずしてみてください。「高速社会で過労死しないために・・」と本来なら帯にあるべき言葉が潜んでいる (そう、カバーは元に戻してくださいね)。

関沢英彦のコラムへのリンク http://www.athill.com

*著者:関沢英彦(せきざわ・ひでひこ) 東京経済大学教授・博報堂生活総合研究所所長。最新刊『生活という速度

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