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 関 沢 英 彦

奥付が昨年の十二月三十日と記されている本を手に取ります。「ニッポンの村も百姓も滅びるもんか。オレはけっして死にあせんど!」とは帯の言葉(木村迪夫『百姓がまん記』新宿書房)。

「滅びる」「死ぬ」という言葉をよく見るようになった昨今です。お正月の新聞の見出しをコンピュータに入れて数えると、今年は「国」という単語が十二位に入りました。「国が滅びる」「亡国」といった日本の行く末を案ずる記事が多かったからです。

ところで、村や百姓は、もうずっと前から危機的状態。国や国民にとって「やせがまん」の先輩ともいえましょう。

この本の出だしは、次のような文章で始まります。「わたしが耕耘機を買ったのは、忘れもしない一九六〇年(昭和三十五年)の春だった・・その分だけわたし自身の日常も忙しくなってしまった・・耕耘機での耕起作業はまるで自分が追い立てられるような日常であった」。何だか、わたしたちの生活すべてを言い当てられているような気持ちになります。

「情報が氾濫するマルチメディア社会においては、『付加価値』とは情報を減らすことに他ならない」(ノルベルト・ボルツ著・村上淳一訳『世界コミュニケーション』東京大学出版会)。

パラパラめくっていて、こんなフレーズを見つけて、笑ってしまいました。この人の本は、平積みの新刊書のなかで、いつも書名で目立ちます。『グーテンベルグ銀河系の終焉-新しいコミュニケーションのすがた』(法政大学出版局)とか『意味に飢える社会』(東京大学出版会)とか、読む前から挑戦的です。

「今日もっと具体的でありたいと欲する者は、もっと抽象的になるしかないのだ」「遠距離コミュニケーションはますます円滑に行われるが、近くのコミュニケーションはますます難しくなる」(同書)。こうした指摘が目に飛び込んできます。

自分の畑に沈潜しながら、遠くを見通していく『百姓がまん記』に対して、田中聡『不安定だから強い』(晶文社)は「武術家・甲野善紀の世界」という副題のように、もっともわたしたちに近いところにある身体を「耕作」します。

「肝心なのは、正解を求めることではなく、問いの立つ地平を深めてゆくことなのである」(同書より)。

テコの原理で身体を動かすのが近代のありかた。それに対して、筋力ではない「不安定」な動作なのに「強い」という甲野師範の技を知っていくと、「耕耘機」に代表されるテクノロジーによって「追い立てられる」ようになったわたしたちにも、別な道があるのではないかと思わせてくれます。

踏み出す足と逆の手を振って、サッサと歩くのがいまの歩行法です。しかし、江戸期には、身体をねじらない「ナンバ歩き」をしていたようです。書店を出たら、こうした古来の歩き方をしてみたくなりました。

関沢英彦のコラムへのリンク http://www.athill.com

*著者:関沢英彦(せきざわ・ひでひこ) 東京経済大学教授・博報堂生活総合研究所所長

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