関 沢 英 彦 好きな旅館にはふるさとのなつかしさがある これは東京・御茶ノ水にある山の上ホテルの創業者・吉田俊男が残した言葉だという。常盤新平『山の上ホテル物語』(白水社)は、この特異なホテルが主人公である。山の上ホテルは、ふるさとのなつかしさとサッパリした旅行の二つの要素を併せ持つことをめざしている。 さて、そこで質問である。岩井志麻子の『猥談』(野坂昭如・花村萬月・久世光彦との対談・朝日新聞社)と題された対談集が『山の上ホテル物語』のそばに並んでいるが、それぞれの作家との対談を行う場としては、旅館とホテルのどちらが似合うのだろうか。 興味深いのは、野坂昭如との対談は、まさしく涙が出るほど笑ってしまう古典的な「猥談」であって、いまはなき怪しげな旅館のひと部屋で、録音機を前に話していただくのがふさわしい。ところが、久世光彦との対談は、ホテルでブランデーを片手の文学論という風情になっている。花村萬月との対談は、ちょうど中間というべきか。 岩井・野坂対談の続きとしては、リチャード・レイン他『浮世絵 消された春画』(新潮社)をご覧になるのがよろしい。「間男が消えた!陽物が消えた!愛し合う恋人たちも消えた!」と帯にある通り、改竄され、春画でなくなった浮世絵が世界に流通しているという事実を指摘している。無賃読書をしながら、後ろを通る人に、あられもない図版に見入っている様子を気づかれないかと落ち着かない。 岩井・久世対談につらなる「ホテル路線」をお好みの場合、書店の平積みの新刊書の中では、大岡信『詩集 旅みやげ にしひがし』(集英社)に向かうことをお勧めする。 「ホテルまた」という詩が巻頭近くにある。「旅行鞄を二つさげて 歩いていくといふ」ことは、家をぶらさげて地球を動き回るようなものだという趣旨の短い詩だ。外国旅行の折に書かれた詩を集めた本らしい導入である。じめじめしない、「サッパリ」した旅を楽しめる。 それにしても今年の冬は寒い日が多い。街を歩く人は、書店で時々温まることを心がけたい。そうそう、今回の私は、何冊かの無賃読書の後、横山秀夫『半落ち』(講談社)を買い求めた。このところ、推理小説から遠ざかっていた者としては『このミステリーがすごい』の第一位という帯にも動かされた。9月に出たときに『半落ち』というタイトルにひかれたのだが、そのときはミステリー気分ではなかったのである。
関沢英彦のコラムへのリンク http://www.athill.com *著者(せきざわ・ひでひこ)は、博報堂生活総合研究所所長。 |