コラム/野本三吉


沖縄と横浜を往復する生活、2ケ月の経験

4月2日から4日まで沖縄に滞在して、那覇の沖縄大学から歩いて15分のところにアパートを借り、本格的に住居をここに定め、そこから週の半分は沖縄大学、後の半分は横浜に行き、横浜市大で講義をするという生活が始まって、ほぼ2ケ月が経過した。

両方の大学の講義数を合わせると20講座近くになるという凄まじい生活で、この間は、講義の準備をする時間を作り出すだけで精一杯という感じで、その時間帯もどうしても夜中になってしまうということで、「生活者」に向かう時間もとれなかった。

いま、晴美と住んでいる家は那覇の高台にある6階建ての5階である。目の前には、沖縄特有の巨大な貯水タンクが2つ並んでいる。その向こうに住宅地が並び、さらにその向こう側には海が見える。そこは那覇空港に近く、飛行機がキラキラと光りながら音もなく飛んでいる。疲れたとき、窓の欄干に頬づえをついて眺めていると飽きない。

それに、ここではテレビを持たないことにしたので極めて静かだ。また電話も使わないようにしたので、ひっきりなしに鳴り続けた横浜での生活が嘘のようだ。

それだけ、多くの方に迷惑をかけているのかもしれないが、極力、手紙の返事は書くようにしている。こうして2つの街と、2つの大学を往復して考えたこと、感じたことを書いておきたい。

横浜市大でのオリエンテーション

沖縄大学での入学式、那覇の家の引っ越しを終わらせて、横浜市大の入学式、新入生、在校生のオリエンテーションに参加しながら、とても寂しかった。

いつもなら、君たちとこれから一緒に力一杯やっていこう、と言うのだが、あと数ケ月で目の前にいる学生諸君と別れなければならないというのは、なんとも力が入らない。

学生にも、自分自身にも残酷なことだなアとあらためて感じさせられた。これは、直面してはじめて感じたことであった。

横浜市大に、期待一杯で入学してきた学生諸君にはよけい申し訳ない思いだった。

ところが、4月11日の「人間社会演習(2)」に出かけると、いつもの621実習室に30名を超える学生諸君が参加してくれ、ジッと待っていてくれた。

学生諸君と向かい合い、語り合っているうちに、あと数ケ月ではなく、まだ4ケ月もあるではないか、という気持ちに変わってくるのを感じた。

後期から担当してくれる後任の先生に引き継ぐためにも、語り尽くし、やり尽くしたいと思った。学生諸君は、「社会福祉論」を交代で録音し、講義録を作成するのだと、テープおこしにも挑戦してくれている。その思いに応えたいと思い、講義では「日本社会福祉事業史」を語りながら、内側から溢れてくる思いも語っていくことにしている。

また、7月23日~25日に予定されたゼミ合宿(野島青少年研修センター)では、野本三吉の著作を分担して読み込み、その内容からテーマを選んで討論会を行うという、願ってもない企画を、ゼミ幹事の学生たちは立ててくれている。

この思いは、金曜日の1限の「人間社会論セミナー」でもさらにスパークした。この講座は1年生のために基礎講座として用意された入門セミナーなのである。

キラキラとした瞳の新入生と向かい合いながら、彼ら、彼女らに精一杯、語り尽くそうと決心した。半年間の講座だが、この中で『風の自叙伝』(野本三吉著)をテキストにしながら、寿町で出会った日雇い労働者のことを真剣に、熱を込めて話した。

そして、学生諸君にも感想を話してもらった。グループで語ってもらった。入学したばかりの大学を歩き回ってもらい、「大学新発見」のレポートを頼んだ。

学生食堂の店長へのインタビュー、大学を掃除しているおじさんとの対話、学長室の写真撮影、大学をねぐらにする猫の追跡、大学に並ぶイチョウの数を数えた記録。

大学の裏山にある防空壕の探検…。実に豊かなレポートが届けられ、驚かされた。何かが共鳴している。それは、同じ1年生を対象にして行われている「人間論A」でも続いていった。この中で「悲しみと癒し」をテーマに語りかけた。

まず、これまでの生活の中で「もっとも悲しかったこと」を書いてほしいという個人作業から始まったのだが、悲しみの根源には、慣れ親しんだ対象を失うこと、つまり「対象喪失」があることに突き当たり、別れや死の体験に到達する。

ぼく自身も、妹の戦争による死、中学時代の友人の死、父の死などを語った。不思議な共鳴現象が起こっていた。涙をこらえている学生の肩の震えを感じた。

悲しみを本当に悲しむこと、そのことの中から生きることの愛しさを感じとれること、生きる力が湧いてくることを話した。人間はいのちある存在である。いのちは有限なものである。しかし、有限だからこそ日々の生活が愛しいのであった。新入生のオリエンテーションの悲しみから、新しいいのちを貰ったのだと思う。

汗だくの講義、抜けるような青空の下で…

那覇空港へ降りると、両側に色とりどりの花が咲いた通路を抜け、広いロビーに着く。いつも、この雰囲気に出会うと肩の力が抜け、ホッとする。心が軽くなる。なぜなのだろうと思うのだが、南国特有の明るさ、暖かさもあるのではないかと思う。

沖縄大学での初めての授業は、4月15日(月曜日)。午前8時30分に大学の事務が始まるので、施設課に行く。ここで印刷のすべてをやってくれる。部数と閉じ方を指定し、お願いすると講義の時間までに出来上がっている。その注文を一遇間前にしなければいけないのだが、ぼくは間に合わず、月曜日に3日間ぶんの印刷を頼むことになる。

施設課の職員は約束違反の新米教員の依頼を引き受けてくれるが、この日の朝までに教材を完成させるのはかなりきつい。そして、出席簿に捺印、ポストを覗き、研究室でしばらく事務作業をして、いったん家へ。これで汗ビッショリ。シャワーを浴び、着替え、本格的に講義の準備。それから再び大学まで歩き、講義。「援助技術論(1)」。ソーシャルワーク概論という位置づけなのだが、(2)も(3)もあるので、どこまでやればよいのか迷う。

100人を超える沖縄の青年たち。一方的に語ることは苦手なので、様子を見ながら語りかけることになる。気づくと汗がボトボト滴り落ちている。学生は涼しい顔をしているのに何ということだ。沖縄にきてすぐにはみな、脱水症状になるという。それからは飲料水が離せなくなる。どこにこれだけ水分があるのかと思うほど汗をかく。気持ち良く汗をかく。気にしないことにした。

沖縄大学は、1部と2部がある。1部は昼間部。2部は夜間部。そのため、同じ講義を昼夜2回やることになる。2部には社会人が多く受講している。

高校の先生、福祉現場の職員、保健所や社会福祉協義会の専門職の方々も受講している。また一方では、高校で辛い体験をした学生もいる。その意味ではあらゆる方向に気配りをした講義になる。
 
沖縄に来て、ぼくはあまり服装や持ちものを気にしなくなった。誰もが気軽な服装をし、自由なのだ。そして、自分に素直だという気がする。

社会福祉原論では、阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんや田中正造の記録ビデオを上映して語り合っているが、沖縄の講義で、こうした感想が届く。

「大学の門をくぐり、早や2ケ月になろうとしています。たくさんの新しい発見があり、毎日充実した日々をすごしています。私は人生の折り返し地点もとうに過ぎた54歳で学ぶことを選びました。とても幸せだと思っています。今更何を学ぶの、という知人さえおります。

確かに地域活動の中では、充分すぎるほど学習してきました。人生何をしてきたかではなく、どう生きてきたかだという田中正造の生き方こそ<生きる原点>ではないかと思いました。生きる証しを得る目的でやっていた町の婦人会長や各種の委員、でもその場に甘んじるわけにはいかなかったのです。わからないことがたくさんあります。何を支援してきたかではなく、どう関わってきたかだと思いました。子育てを理由に後回しにしていた<どう生きるか>を見つめ直す機会にしたいと思います。福祉の原点も<生きること>に尽きるのではないでしょうか。ユックリと考えさせて下さい。」

南国の抜けるような青空の下で、ぼくももう一度、原点に戻れるかもしれない。沖縄でのⅡ部の講義の終了は、午後9時40分だが、その後、話しが弾み、深夜になることも多い。しかし、どんなに遅くとも食堂は開いており、大学の図書館も午後11時まで開館している。

夜の星を眺めながら歩いていると、どこかから三線の音が聞こえてくる。汗と共に、ぼくは何か体一杯に蓄積してしまったものを流しているのかもしれない。


出会いと別れの原風景

沖縄へ来るということで、この間、実に沢山のグループや仲間とお別れをしてきた。横浜市大のある金沢区で取り組んできた、精神障害者の支援活動(金沢海の会)。さらに、不登校や引きこもりで苦しんでいる子どもたち、青年たちとそのご家族を支援する活動(金沢虹の会)。とくに金沢では「父親の会」が誕生し、大事な活動をしていた時期であった。

また、神奈川県のボランティアセンターの運営委員長や、人権擁護相談センター、福祉運営適正化委員会などの代表も降ろさせていただいた。それぞれに、思い出深い活動である。

考えてみれば、生きていることそのものが<出会いと別れ>の繰り返しかもしれない。その中で人は、新たな課題を引き受け、生きていくことになるのだと思う。そんな状祝の中で、大学での福祉ゼミを総括した著作(10年史)が完成した。乞う、ご購読。

出会いと別れの原風景』(新宿書房/野本三吉著/2000円)

わたしは海、とほーもなく満ちてくる ふちのない水 (新川和江)

光をあび、風に吹かれながら 生きていることのなつかしさ (吉野 弘)

今から30数年前、リュックひとつ背負って、ぼくは放浪の旅に出た。どこで生きればいいのか、何をすればいいのかわからなかった。生きていくためにサンドイッチマンもやったし、八百屋でも働いた。そして、酪農や日雇い労働者という肉体労働にも従事した。

こうした4年余りの旅の最後が沖縄であった。それも、東京の山谷のドヤで繰り返し、関東大地震の夢を見て、なぜか沖縄に行きたくなったのであった。

そこで出会ったのが、比嘉ハツさん、具志竪用信さん、そして松田ツルさんを中心とした「ミロク会」の巫女の方々であった。当時、アメリカの占領下にあった沖縄には、パスポートがなければ行かれなかったし、貨幣はドルであった。

各地で米軍による事件も多発していた。そんな中で、不思議な運命に誘われるように、ぼくは宮古島をスタートに、沖縄の各地、離島を歩くことになった。「ミロク会」に参加する方々は、みな夢や言葉を見たり聞いたりして、吸い寄せられるようにして、当時のコザの八重島に集まってきたのであった。そして、二度と戦争が起きないように、天変地異の被害を少なくするようにと祈り続けているのであった。その祈りの場所が、沖縄にある「鍾乳洞」「ガマ」であった。そこには、何万年の間に形成された、様々な光景が静かに眠っていた。

その中の一つが、いまの「玉泉洞」である。こうした地下の「ガマ」を「岩戸」と呼んでいた。ミロク会の人々は、沖縄列島のあらゆる島々をめぐり、3000余りの「岩戸」を、40年の間に開いたのであった。ぼくが経験したのは、その内のわずか半年のことであった。

その直後、沖縄は日本に復帰した。以来、沖縄には行っていない。この間、ぼくは寿生活館、児童相談所でソーシャルワークの仕事をしてきた。10年前、ぽくは大学の教員となり、家族で沖縄を訪ね、比嘉ハツさん、貝志堅用信さんにお会いした。お二人とも年老いており、かつてのエネルギーはなかったが、これからの世界、これからの地球の運命をとても気にしており、戦争や天変地異のないよう祈り続けていた。

そして、遺言のように「この大自然のしくみの根本は、陰陽の結びにあるのだと悟ってください。風水火の和合によっていのちは生まれるということに気づいてください。そして、なによりも<いのち>が大切であること。地球は人類の母胎であること知ってください」と言われ「わたしたちのやってきたことをぜひ、心ある方々に知らせてくださいね」と話された。

それから暫くしてハツさんは亡くなられた。その直後から横浜市大の学生との沖縄研修旅行が始まった。毎回、八重島にはお邪魔してきた。今は、ハツさんの息子さん、比嘉良丸さんが後を継いでいる。この膨大な記録をまとめるのには少なくとも数年間はかかる。

そう感じていたときに、沖縄への移住が決まった。何か運命を感じる。生きものの原型にもどり、自然と融け合っていた人類の生き生きした感性に触れたいと願う。

*本文は野本三吉(加藤彰彦)個人誌『生活者』6月号No158、非戦元年6月1日、より転載

*筆者(のもと・さんきち)は、野本三吉ノンフィクション選集の著者。現在、沖縄県那覇市に在住。