ダンスとセクシュアリティ

石井達朗

ダンスは言葉をやりとりする演劇とちがい、生身の肉体だけがものをいう。この肉体はすべて男女どちらかの性別をもっている。そのふたつの性別に従って多様なジェンダーロールが振付けられ、踊り分けられる。バレエやモダンダンスの舞台は、いわば男と女という二極分化された両性が惹きつけあい、抗争する闘技場である。

1960年代、アメリカに生まれたポスト・モダンダンスは、このような性別役割を故意に無視するのがひとつの特色であった。男女ともに、トレーニングウエアにスニーカーという、性別の見えにくい衣装がそれをよく表わしている。ユニセックス感覚である。衣装ばかりでなく、動きに関しても「男らしさ・女らしさ」を匂わせるような仕種はしりぞけられ、中性的な動きが好まれる。

これはひとつには、それまでのバレエやモダンダンスが男/女をくっきりと際立たせて描いてきたことに対するアンチテーゼなのだろう。際立たせるとはいってもそのやり方が、かなり類型的・・・・というよりも、男性の側からの勝手な思い込みが大きい。その典型が19世紀のロマンティックバレエである。チュチュを着てポワントで立ち、くるくる回って踊るバレリーナは、か弱く、はかなく、この世のものでない天使的なイメージがつきまとう。彼女には名実ともに男性の「サポート」が必要なのだ。華麗に宙を飛び、美しく回転する女性を支えるのは男性である。彼のサポートが良くなければ、プリマの美しさもひきたつことはない。

バレエの一大特色であるポワント――観客は当たり前のように観ているが、これはかなり非現実的であり、人工的である(いくら靴をはいていても、足の指の突端で立つ人などいない)。西洋がこのようなきわめて特殊な身体技法を生み出したことは、当時のジェンダー観からみて興味深いことだ。ポワントはバレエを特徴づけるものだが、これをするのは女性だけである。

20世紀舞踊の母ともいえるイサドラ・ダンカンは、拘束具のようなチュチュやバレエ・シューズを脱ぎ、ゆるやかな衣装をまとい裸足で自由に踊った。同じく20世紀初頭の天才ニジンスキーは、動物的ともいえる跳躍で観客を魅了し
た。この二人はその後の世界のダンス界の流れを予兆している。裸足のイサドラは、女性ダンサーが男性の欲望のなかでイメージされる女性を踊るのでなく、自分自身の表現のために踊った。これはマーサ・グラハムからピナ・バウシュにいたる(「踊り手」としてばかりでなく)優れた「振付家」としての女性の出現の嚆矢となる。他方、ニジンスキーは鑑賞するばかりでなく、「鑑賞される」男性(舞踊家)の系譜がここから出てきたということだ。ヌレエフ、ジョルジュ・ドンなどの流れである。

もうひとつ、舞踊における伝統的な「男/女」の表現を侵蝕していったのは、ホモエロティックな感覚である。ベジャール作品はもちろんのこと、ヌードや女装を取り入れ「パンク・バレエ」呼ばれたイギリスのマイケル・クラーク、『エンター・アキレス』をもって来日した DV8、獰猛なメークのオスの白鳥たちが踊る『白鳥の湖』で欧米を席捲したAMPなどはその代表格。このような表現を、たんに「同性愛的」とくくってしまうのは問題がある。多型的で一筋縄ではいかないセクシュアリティの表象が、ダンスならではの領域で広がりを見せていると考えるべきだろう。

ホモエロティックな感覚は男性だけにとどまらない。日本のイトー・ターリは女性の同性愛性をテーマにして、(ダンスではなく)パフォーマンスの活動を展開してきている。テーマだけが珍しいというのではあまり意味がないが、イトーの場合はテーマと方法論が分かちがたく結びついている。また男女に関係なく、セクシュアリティのいかんを問わず、同時代人に発言する強度をもっている。

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今回、わたしが新宿書房から10年ほど前に出した本を全面的に改訂して『異装のセクシュアリティ』(新版)として出すことになったとき、以上のようなダンス関連のことも含めて、ここ10年間の身体の表現領域についてわたしがどう感じてきたか・・・については、紙面の許す範囲において加筆した。文章の細部についても可能なかぎり手を入れたつもりである。日本においてもこの10年間のダンス状況の変化は、目覚ましいものがある。「モダンダンス」でなく「コンテンポラリーダンス」という表現も定着し、両者は区別されつつある。ダンスの本ではないので細かなことには立ち入らなかったが、ダンス、演劇、人類学、歴史など広く言及しながら、ジェンダー/セクシュアリティを軸にして同時代の表現(者)を浮き上がらせようとした。

先に述べたイトー・ターリなどを除くと、この分野のアーティストとしての表現者たちは意外に日本では稀だが、「女装家」としてしっかりとした発言をつづける三橋順子さんや、「両性具有」といわれるインドの去勢したヒジュラの実態を20年間撮りつづける写真家石川武志さんと以前、雑誌『ユリイカ』でやった鼎談が本書に収められたのも幸運であった。あでやかな女装で出現し、驚くほど論理的に「女装」の背景を語れる三橋さんは、おそらく世界の女装家のなかでも稀有な人だろう。また石川さんとヒジュラの関係は、ほとんど執念としかいいようがない。非常に困難なヒジュラのコミュニティにこれだけ深く長く入りつづけた外部の人間は、世界でも石川さん以外にいないはずだ。

10年前には、三橋順子さんや石川武志さんを知らずに、女装やヒジュラのことを本に書いていた。本書をきっかけにしてお二人に出会えたのはとても嬉しい。また、本書のおかげでTG(トランスジェンダー)/TS(トランスセクシュアル)など、ふだんわたしが接している舞台関連の人たち以外でさまざまな活動をしている人たちとの邂逅もあり、それが逆にわたしがダンスなどの舞台の表現を見る眼に、少なからぬ影響を与えてきたと思う。

*筆者:石井達朗(いしい・たつろう)
舞踊評論家・慶大教授。『異装のセクシュアリティ』(新版)、『サーカスのフィルモロジー』の著者。