最終章.カオハガンの想い出――南の島で考えたこと カオハガン島の一週間は、ゆっくりと、しかしあっという間に過ぎてしまった。またあのゴミゴミした東京に帰らなくてはならないかと思うとうんざりしたし(ましてや寒い冬!!)、このままこの島でのんびりと暮したいとも思ってしまった。心地よい気候、自然の恵み、おだやかで陽気な人々の暮らし。 ■カオハガン島の北東岸■ 感想ノート ぶらぶら猫もカオハガン島はとてもいい島であると思うし、この島の現状をつくりあげた崎山氏の行動力には敬意を表したい。力の違う2つのグループに属する人々(あえて民族という言葉は使わない)が、これだけ対等で、互いを尊重しあい、平和に共存している姿には感銘を受ける。これには崎山氏の人柄や多文化を見てきた視野の広さ、彼に利潤追求という目的がなかったことが影響しているであろう。 このようなカオハガン島の状況や崎山氏の生き方に感化され、ともに活動されている若い人たちも大勢いると聞く。それはそれで立派なことだ。 ただ、ひとつ気になることがあった。日本での生活を否定的にとらえ、それとくらべてカオハガンはなんと汚れなき美しい世界なのであろう、とロマンス的にとらえる見方をする人が全員ではないにしろいるのではないかと思われることである。いわく「現代物質文明がかかえる問題点をあげ、物質的にははるかに豊かだが幸福ではない日本人と、物質的には貧しくとも幸福なカオハガン島民」的な考え方である。こうした考え方に素直に賛成してよいものであろうか? ■カオハガン島の学校■ 皆が幸福になれる社会システムは? 日本のような先進国の豊かさが第三世界からの搾取によって成りたっていると言えることも知っている。しかし、今のところはこれに優るものは思いつかない。すべての人々に平等に豊かさをと願うのはたやすいが、一見豊かで安定しているかにみえる日本に住む我々の生活だって、必死に働いてかろうじて維持しているものなのだ。 このすばらしい日本という社会の中に幸福を見出せないことは、ぶらぶら猫にはとても「不幸」なことに思えるのである。
■日本とフィリピン■ 外の刺激を必要とする日本人 第3世界に行って自分の生きがいを見つけるのはそれはそれで良い。ただ日本の中にだって君たちが力を発揮すべき場所はあるのだよと言いたい気にはなる。 彼らの考え方を否定するつもりは毛頭無い。どこであれ、誰か他人のために力を尽くすこと、人助けをすることは良いことだ。ただ、それがあまりに性急に現代文明否定論、日本型生活否定論に行き着いてしまうのはどうかと思う。南の島には南の島の生活があり、日本には日本の生活がある。 ■カオハガン島の南東岸■ 幸福の尺度 崎山氏の著作の中で、幸福=財/欲望、という幸福の尺度をはかる定式が紹介されている。欲望が大きくなるほど小さな財では幸福感が得られなくなり、逆に欲望が小さければ小さな財でも大きな幸福感が得られることを示した式である。確かに人間の欲望は果てしなく膨らんでいくものであるし、欲望が大きくなればなるほど小さな財で満足できなくなり、幸福感が減っていくのは事実である。しかし、すべての人間があるところで「足る」ことを知ってしまったなら人類の「進歩」はなかったと思う。欲望を諸悪の根源と考える仏教徒たちのお怒りを覚悟の上で言えば、常に上をめざすこと、より多くを欲すること、より美しいものを求めること、科学技術から社会システム、芸術に至るまで、すべて進歩は「欲望の飽くなき膨張」によってもたらされてきたのだ。 人類の幸福のための理想にのっとった理論や公式を頭の中で考えるのは簡単だ。しかし、人間が理想のみでは動けない存在であることは共産主義の失敗が証明しているように事実である。人間の欲望や感情をうまく刺激し、利用したのが、産業資本主義であり、その富を再分配するというかたちでできるだけ多くの人に幸福を与えようと編みだされたのが社会民主主義なのだ。 ■ウニご飯を食べる若者たち■ 我々はそれほど不幸なのであろうか? 「日本人は金は持っているが、だからと言って幸福なわけではない。この島は貧しいかもしれないが、だからと言って不幸なわけではない」と島民が自分たちの生き方に誇りを持ってくれるのはそれはそれで良いが、日本人全員が不幸にあるかのように思われては困ってしまう。 現代に生きることの幸せ 時々過去を振り返ってみることは大切である。我々が失ったものをカオハガン島に見出し、自らの生活を反省してみることも意義あることである。しかし、過去の良い面と現代の悪い面だけを取り上げ、過去の悪い面と現代の良い面を取り上げないのは冷静な判断であるとはいえない。繰り返しになるが、わずか半~1世紀前までは、現在先進国といわれる国々の民衆も、いつ死と向き合わなければならないかもしれないという恐怖の中で、「個人」の人権が平気で無視される社会の中で暮らしてきたのだ。 もちろん現代が失ったものも多くあり、無反省で繁栄と進歩の道を歩み続ければ良いというわけではない。「忙しい生活を送る人間が一度立ち止まり、骨休みをしつつ、さまざまなことを考える場としてカオハガン島を使ってほしい」、そう崎山氏や彼の活動を応援する人々は呼びかけているのだと受けとっておきたい。 ■島の北西部にのびる砂州(ポントグ)■ 島を訪れよう! ぶらぶら猫は残念ながらカオハガン島のような楽園に暮らすことはできない。寒い冬もあり、人々が富と豊かさを求めて懸命に働く日本で、物にかこまれた生活を送らねばならないだろう。しかし、疲れたなと思ったら、どこか南の島でぐうたら猫になって昼寝をするだろう。その候補のひとつに、もちろんカオハガン島再訪も入っている。(終) ●カオハガン島に関する書籍 ●カオハガン島に行くには ●カオハガン島関係団体などの連絡先 *筆者 藤野優哉(ふじの・ゆうや):元編集者。1999年より1年間、絵描きを目ざしてパリに留学。3月に新宿書房より『ぶらぶら猫のパリ散歩──都市としてのパリの魅力研究』刊行。 |