ビルマ最初の老人ホーム訪問 ビルマ語を教えたり、通訳したり、翻訳したりしている関係で、新しい情報を得るため、少なくとも2年に1度は彼の地を訪れることにしています。ここでは1999年(平成11年)11月の訪問についてお話します。 この年の旅は、ヤンゴンから車で先ずシャン州南部のピンダヤ、インレー湖、タウンジーといった順で回りました。ここシャン州南部は避暑地、観光地として昔から知られていた地方ですが、その昔(1957~58年)私が当時のビルマ政府の給費留学生として、ラングーン大学に留学していた頃にも、その後の何十年の間にもつい行く機会がないままになっていた所です。 この時の旅では観光もさることながら、シャン州にはお茶や、納豆などの、我が国の食文化に共通する産品があり、その製造現場を見たいというのが一つの目的でした。 納豆はビルマ語ではペボウッといいます。「ぺ」は豆を表し、「ボウッ」は腐るを表すポウッからきている言葉です。発酵食品特有のかなり強い匂いの物もあるからでしょう。形は丸くて薄い煎餅状の乾燥納豆が一般的ですが、土地によっては日本と同じ糸引き納豆もあるそうです。 その後シャン高原を下って、旧王都マンダレーへ行き、拙訳書『ビルマの民衆文化』の原著者ドー・アマーを訪ねてご挨拶し、さらにマンダレー北方ミングン村にある老人ホームを見学するという目的もありました。 マンダレーはミャンマー中央部にあるミャンマー第2の都市。第3次英緬戦争に敗れた結果、1885年ビルマ王国は完全に英領植民地になるのですが、その最後の王都でした。 シャン州で興味深いものをたくさん見た後、マンダレーに向かったのは。1999年11月8日のことでした。ミャンマーは平年ならば雨季も明けて、乾燥した涼季の筈でしたがこの年は雨季が明けきれていず、時折にわか雨が降る状態でした。ミングン村に出掛けた日は雨には遭いまんでしたが、マンダレーからの自動車道は、最近の雨のせいで道がぬかるんだまま固まったような、深い轍がうねうねと続くという大変な悪路でした。 ミングン村は、『ビルマの民衆文化』の中の「世界最大の石仏」にも写真が出ている大梵鐘がある村で、観光地であるのですが、道路事情は決して良くありません。この時の旅行全行程で私の両掌がマメだらけになったほど(車揺れがひどいので車内のアシストグリップにつかまり続けたため)です。ミャンマーでは、道路ばかりでなく、通信、医療、教育など、日本ではあって当たり前のインフラが充分整っていません。 国民が餓死するほどの状況ではありませんが、西欧諸国、特にアメリカによる制裁のためODAも制限され、しわ寄せが庶民の上に大きくのしかかっているのです。経済的なマーケットも大きい中国には比較的寛大なアメリカの外交姿勢にはそのご都合主義な面をを感じるところです。 それはさておき、ミングン村は大梵鐘の他にもう一つ、ビルマ最初の老人ホームがあることでも、ビルマ人にはよく知られています。<最初の>といっても<ビルマ人による、ミッション系でない>をつけないと正確ではありません。 この老人ホームを作った人はドー・ウー・ズンというビルマ人の女性実業家でした。ドー・ウー・ズンは1868年マンダレーの富裕な絹商人の一人娘として生まれました。ビルマ王国全土が英国の植民地となる一代前の王様の時代です。 信仰心の厚い仏教徒の両親のもとで心優しい孝行娘に育ったドー・ウー・ズンは、16歳で両親をたすけ、家業にいそしむようになります。絹の取引のためにビルマ各地を旅行し、各地に多くの友人もでき、博識にもなりますが、謙虚で、必要な所と人に対しては惜しみなく喜 捨寄進をしたといいます。 両親が亡くなった後、淋しく虚しい気持を抱え、気晴らしに出かけたラングーンでフランス系の尼僧達が作っている老人ホームを見ることになります。そして永年仏教に馴染んできたビルマの老人達がキリスト教のホームで暮らすのは精神的にたいへんだろうなと思ううち、自分の信仰を持ちつづけられるホームを身寄りのない老人のために作ろうと決心するのです。 こうしてマンダレーに戻ったドー・ウー・ズンは、両親の遺産を投げ出しミングンに土地を求め、自らも支援者たちと荒地を開墾して1914年1月このホームを開設しました。 ホームの正式名称はミングン・ボウッダーバーター・ボーボワー・イエイッター、直訳しますと「ミングン・仏教・おじいさん、おばぁさん憩いの場」という意味です。イエイッターというのは本来「心地よい日陰」を意味し、心の安息を得られる場所などに付けられることが多い言葉です。 開設当初の入所者は95歳のお爺さん1人と98歳、85歳のお婆さん2人の3人だったのですが、4年後には20人になります。それまで私財だけで、仕事も彼女とヘルパー1人とでやっていましたが、1918年からは養老院としての組織を作り、一般の浄財も受けるようになります。 彼女の老人ホーム開設はここ1ヶ所に留まらず、1927年にはビルマ南部のタトン市に、翌28年にはビルマ中部のパウンデに、1933年にはヤンゴン市内ティンガンジュン(1952年現在のヤンゴン市フニンズィゴウンへ移転)に、更に1937年にはやはり中部ビルマのパコックにと次々と開設して行きました。 パウンデのホームができた年、60歳のドー・ウー・ズンはそこで出家生活に入り、ポー・トゥマーラという法名の尼僧になります。残されている写真に尼僧姿のものがあるのはそのためです。ただ一般にはド-・ウー・ズンという世俗の名前の方が知られています。彼女の功績は当時の宗主国の英国政府からも認められ、叙勲もされています。 第2次世界大戦中はミングンのホームも一部戦災を受け、苦労されたようですが、戦争終結やビルマの独立を知ることなく、1944年ミングンのホームで76歳の生涯を終えたのです。 私がミングンのホームを訪ねた時、古い友人のビルマ女性と一緒でした。私のビルマ国内旅行によく同行してくれる人なのですが、裕福でもあり、困った人を放って置けない質(たち)のこの人はマンダレーを出発する時、ホームのお年寄りに中華饅頭を食べてもらいたいと言って、美味しいと評判の店で160個ものお饅頭をふかしてもらったのです。 あらかじめ何も連絡せずに行ったのですが、ホームは静かで、清潔な所でした。広い敷地に平屋の棟が幾つもあり、日本では考えられない広い空間がありました。 案内されたおばぁちゃん達の大部屋の1つは、片側6~7台の寝台が向かい合って置かれていましたから12~14人ぐらいでしょうか。木製のしっかりしたベッドには4本の柱が高く伸びていて、上から蚊帳が直ぐ垂れるように取りつけてありました。隣の人のベッドとの間には枕の方にかなり大きい木のテーブルが置かれ、花を飾ったりしている人もいました。1つのテーブルを両側の2人が共同で使っているようでした。 おばあちゃんたちは結構身だしなみもよく、顔にはビルマ女性特有の化粧であるタナカという黄色の樹皮の液を塗り、栄養状態も悪くはなさそうです。棟と棟の間の空間が広く、木々や草花も植えられています。散歩がてらよその部屋を訪ね合うこともできます。 敷地内に医務室もあり、薬を貰って出てくる人もいました。この時ホームには男性36人、 女性78人が入所しているという話でした。 何人かの女性と話をしましたが、「夫が別の女性と暮し始めたから」という人が思ったより多く、家庭内で女性が実権を握っているとよく言われるミャンマーとしては意外な感じでした。また「夫の死後、実子が居ないので甥が面倒を見てくれていたけれど、重荷になりたくないので」という人もいました。 どの人も「ここへ入れてよかった。仲間もいるし、親戚に気兼ねする事もない。とても気持がゆったりできる」などと話されるのです。ホームの関係者がそばに居たわけではありませんので、正直な話でしょう。実際ヤンゴンなどの都会地ではもっと痩せて、身なりも貧しげで、不幸が表情に出ているお年寄りを道で見かけることがままあります。ここの人たちはその点屈託のない、おおらかな環境にいられるようです。 入所はやはりそう簡単ではないそうで、3ヶ月待ったという人も居ましたし、親戚などの関係者が「扶養できない」という申請書を出し、村長などがそれを証明した書類も必要だそうです。お年寄りを尊敬し、大事にするという習慣がミャンマーの社会には伝統的に受け継がれていますので、実子でない甥や姪が面倒見ることもよくあることですが、それだけに「扶養できない」という手続きをとるのをためらって、入所が遅れたといっている人もいました。 話をした女性たちの年齢を全部訊ねたわけではありませんが、おおむね70歳代から80歳過ぎで、この国の平均寿命56.0歳(1999年世界銀行の統計)からはかなりの高齢といえるでしょう。もっともミャンマーでは乳幼児の死亡率が高く、出生した1000人の赤ちゃんの内、79人が1歳未満で死亡するという統計もあるそうですから、そのことが平均寿命の低さの原因になっているとも考えられます。 敷地内には尼僧姿のドー・ウー・ズンと有力な支援者であったBIAウー・マウン・ジィーの像が建てられています。ウー・マウン・ジィーという人物についてですが、その銅像の下に説明の刻文が刻まれていたにも拘わらず、私の撮影失敗で帰国後良く読みとれないことがわかりました。 ドー・ウー・ズンについてはミャンマー語で永年にわたり出版された百科事典にも書かれていますし、ドー・アマーの著『マンダレー人(びと)たち』にも取り上げられています。けれどもウー・マウン・ジィーのことは百科事典に載せられていないのです。『マンダレー人(びと)たち』の「ドー・ウー・ズン」の項に「老人で身体の具合の悪い人があると医者のウー・マウン・ジィーが薬をくれた」とあります。 また、BIAについても不明なので、この文を書くにあたって現在ヤンゴンに在勤中の以前の教え子に調べてもらったところ、Burma Infirmary Association の略とわかりました。英国植民地政府によって設立されたらしいということですが、とにかく医師会のようなものですから、やはりウー・マウン・ジィーは医師としてドー・ウー・ズンを大いに支援した人物のようです。 私がしたささやかな寄付金に対してこのホーム事務局はちゃんとした受領書を下さったのですが、ドー・ウー・ズン(尼僧姿でない)と並んで古い伝統スタイルの被り物を頭につけたビルマ人老紳士の写真が印刷されていまして、それぞれドー・ウー・ズンおばあさま、ウー・マウン・ジィーおじいさまと書かれています。ほぼ同格に扱われている感じです。ドー・ウー・ズンは生涯独身でしたから、この2人が夫婦ではなかったことは確かです。 このホームでは物や設備の一部にはそれを寄付した人の名前が大きく書かれているのですが、塗り薬で有名なタイガーバーム一族の寄進と判るものもありました。 160個の中華饅頭は全員に配っても余り、職員の人たちにも行き渡りました。職員は男女ともに感じの良い、真面目そうな人たちで、敷地内に「ここでは、酔っ払う事、騒ぐ事、賭け事は禁止です」と掲示されていましたが、それ以上にお年寄りたちに細かく干渉する様子もありませんでした。 私が以前日本で見たデイケアセンターや老人専門病院より、人間らしく扱われている、つまり職員やボランティアの人が「ネ、おばあちゃん、こうこうしようネ」などと、変に幼児扱いしたり、行動を制約する場面は、短時間ではありましたが、全く見られませんでした。 何かしらゆったり、いい空気が流れていると感じました。またいつか、今度は別のホームを訪ねてみたいと思っています。 ちなみに、今年発行のミャンマー政府統計書では、老人ホームについて「政府はボランティア組織の老人ホームに助成金を供与している」とあって、そういう組織がミャンマー全国各地に合計33ヶ所あることを記しています。 ミングンの帰りは別のもう少しよい道があることがわかり、マンダレーに午後早い時間に戻れました。そして著名女性作家ドー・アマーを訪ねました。前回までは昔から女史が住んでおられた、階下が出版社の印刷所になっている住居でしたが、今回はそこにいらっしゃらず、少し離れた所にある新築の綺麗な一戸建ての家に住んでおられました。一時だけ娘さんの家に来ておられたのです。 84歳という高齢でいくらか弱々しくなられた印象でしたが、マンダレーの町がすっかり中国化していることに話が及ぶと、「昔の侵略者は武器を持って入ってきたけれど、今は札束ですよ」とさすがにジャーナリストの草分けらしい鋭いコメントをされていました。 この時は杖も使われず自分で客間へ出てきてくださったのですが、その後、今年の2月に訪ねた人の話では、以前の印刷所の2階に戻っておられ、ただもうご自分では階下へ降りて来れない状態だったと聞きました。 この後マンダレー周辺で手織りでロンジー(ミャンマー人男女腰布)用布を織っている現場を見たいとあちこち訪ね歩きましたが、機械織りが広まっていて、やっと日が暮れてから1ヶ所見つかりました。 1本の蛍光灯を縦にぶらさげただけの暗いはた織り場で、その家の娘さんが、折角来てくれたんだからと、少し織って見せてくれました。蛍光灯の下では色や柄が充分見えませんが、お礼の気持で出来あがっていた布を友人と2人何反かずつ買わせてもらいました。 訪ねる度にいろいろ考えさせられることが多い我が心のふるさとビルマですが、これからも遠くから見守りつづけたいと思っています。(了) *筆者(どばし・やすこ)は、『ビルマの民衆文化』の訳者。ビルマ語講師。 |