ハンターズ・ヒルに住んだ間も、ジョーンズ氏は家業の監督と社交のため定期的にイギリスに戻った。入会に5万マイル(約8万キロ)の旅行経験が必要だったロンドンのジェントルマン・クラブ、Traveller’s Clubのメンバーにもなっていた。だが、ジョーンズ氏の旅は大西洋の往復だけに止まらなかった。ふたたびギルロイ氏に語ってもらうと―
大西洋を渡って貯めたマイル数は、アフリカへの定期的な旅で上乗せされた。ジョーンズ氏の一行、モディカイ夫妻とサノティックは定期的にケニヤを訪れた。・・・ナイロビのデラミア・アヴェニュー(現在のケニヤッタ・アヴェニュー)になにがしかの不動産を所有していたことが知られている。・・・ジョーンズは永住者ではなかったが、この地域を定期的に訪れた。これは、クマ狩りからの気分転換だった。すぐにジョーンズは、ライオンとトラを狩りの戦利品袋に加えていた。(pp. 55-56)
なんと、小西は主人に従ってアフリカにも何度か行っていたのだ。ジョーンズ氏はConnessyを身の回りの世話をするvaret(付き人)として雇っていたというから、主人の行くところにはどこでも付き従うのが当然だったろう。当時のケニヤ、つまり英領東アフリカでの植民者社会の様子は、アイザック・ディネーセンの小説を脚色した映画『愛と哀しみの果て(Out of Africa)』が想像を助けてくれる。一行は船でインド洋に面した港町モンバサに着き、鉄路、450キロ内陸のナイロビに向かったはずだ。狩りのお伴をした小西は、あの広大な野生の草原を目にしたにちがいない。
しかし、さしものジョーンズ氏も40歳になると、狩りと旅の生活に倦み、穏やかな暮らしを求めたらしい。
1906年にはジョーンズ一家とその召使いはウェールズでもっと時間を過ごしていた。クリックハウエルの近くにあるランべドルの村に住み移ったのだ。ジャングルや森でライオンやクマを追う代わりに、彼はすぐに、クリケットのフィールドでボールを追っていた。クリックハウエル・クリケット・クラブのキャプテンやサイクリング・クラブの会長もし、暮らしがもっと平穏になったと気づいた。1909年にワシントンの所有地のほとんどを貸し出してアイルランドに移ったが、これこそが主人と召使いの人生の運命を決める転機だった。(p57)
アメリカを離れる前に、小西は日本の家族を訪ねることを許された。イギリスへ渡れば日本に帰りにくくなるという、主人の配慮だったろうか。この頃、父親の石田啓蔵は函館を離れ、東京で息子の市作と同居していた。小西が帰ったのが南茅場町56番地の家(ほぼ同時期に少年時代の谷崎純一郎が同じ地番に住んでいた)だったか、その後、一家が転居した日本橋川瀬石町(現在の日本橋高島屋辺り)だったかは不明だが、数年ぶりに家族と対面した小西が各地での見聞を誇らしげに披露したことは想像に難くない。父啓蔵は函館の有力者として官有物払下げ反対運動の中心を担った人物だが、ハイカラぶりの失敗談も残している(注)。西洋風が板についた息子をさぞかし自慢に思ったことだろう。小西はジョーンズ氏へのお土産として、wall hanging (掛け軸か?) を持ち帰ったという。
ジョーンズ氏がアイルランドに買い求めたクリフトン・ロッジは、ミース県アスボイの郊外にある。アスボイは土地が肥沃なうえ、ダブリンとの約40キロのあいだに鉄道が通じ、地主貴族が屋敷を構える場所として人気があった。一家はおそらく鉄道で到着し、そこから馬車に乗り換えたか、あるいは、お抱え運転手がいたというのだから自動車で新しい住まいに向かったのかもしれない。240エイカー(約100ヘクタール)の広大な屋敷には、クリケット場、テニスコート、大きな池を配した庭園などが備わっていた。
それ以前にクリフトン・ロッジに住んだ貴族たちとちがい、ジョーンズ氏は屋敷を差配する家令(steward)や執事 (butler)を置かなかった。その代わりに小西が、20人以上はいたとされる使用人のトップとして、すべてを取り仕切った。他の召使いたちの仕事に細々と口を出し、何かと主人に言いつけるので、使用人の間での評判は芳しくなかったが、忠実で勤勉な召使いとして主人一家には重宝がられた。
そして4年後、16年間そばに仕えたジョーンズ氏が急死する。前日には召使い数人を連れてダブリン動物園に行き、解説を聞かせて楽しんだという。おそらく小西もその中にいただろう。後ろ盾をなくした彼は、日本に帰ろうかと話していたという。しかし、それを叶える時間は与えられていなかった。
ジョーンズ氏の葬儀を終えると、夫人は傷心を癒すため、しばらくウェールズで過ごすことにした。その間、屋敷の一切が小西に委ねられたのは言うまでもない。2週間ほど後の7月最後の土曜日。その日は昼頃に夫人が帰宅することになっていた。小西は池の大掃除を指揮し、夫人を迎える準備を整えた。夫人が到着すると留守中の出来事を報告し、その後は好物のキノコを採って過ごしていたという。しかし、翌朝、朝食の用意された食堂に彼が姿を現すことはなかった。早起きだった小西のベッドは起きたときのまま、風呂の湯も抜かれていなかったという。
小西清之助こと石田荷造は、故郷から6000マイル(約1万キロ)の彼方で果てた。
小西を殺したのはだれか。当初、容疑者として逮捕されたファレル一家は証拠不十分で釈放された。新版A Cry in the Morningは、ジョーンズ家の敷地に入りこんで小西に追われた密猟者が格闘の末に銃撃したという説を取っている。その人物の末路は次のように語られる。
後年、彼(ジャック・コナル)は“荒くれ爺”と呼ばれるが、この恐ろしい秘密を抱えて生きなければならなかった者にとっては、それもほとんど驚くにあたらない。結婚しないままだった。1939年に死亡した。… 夜、彼の家の外の道を通って帰る近所の人たちは、彼が休まらない眠りの中で、大声で叫ぶのをよく耳にした。彼の夢は、ずっと何年も前の“あの日本人”との運命の戦いの鮮明な情景で満たされていたのだ。(p140)
注: 函館毎日新聞(大正10年10月13日)「函館最初の自治(下)」、同(大正10年10月22日)「開化振(二)」
ファレル一家の田舎家