2月10日 熱気球がやってきた
わが茅屋の下に東京都中野区立西中野小学校がある。創立60年を迎える小学校だが、生徒の減少から、この3月末をもって閉校、4月1日から近くの元中学校(ここも数年前に閉校)の跡地にできた新しい小学校「鷺の杜(さぎのもり)小学校」に統合されることになった。100年以上の歴史をもつ鷺宮小学校も閉校になり、この二つの小学校が統合されるのだ。
土曜の朝、快晴の天気。2階のベランダで洗濯物を干していたら、小学校の屋上横から巨大な風船がヌーと顔を出し始めている。あわてて家人と小学校に駆けつけ正門を入ると、校庭には巨大な気球が待っていた。それは閉校記念のイベントとして、こどもたちに「熱気球の係留飛行」を楽しんでもらおうという、PTAが企画した催しだということがわかった。係留飛行の熱気球はフリーフライトの熱気球とちがって、届出も不要であり、業者が各地に出張営業するようだ。
東京23区内での小学校の閉校。人口減、少子化、がいよいよ現実となっている。午前9時からの開始を前にたくさんの人が集まっていて、準備にいそがしい。最初の搭乗者のこどもたちも、すでにゴンドラの中にいる。
この熱気球の直径は20メートル、高さは25メートルで、約20
メートルまで上昇する。お昼過ぎまでこの熱気球係留イベントは
続き、児童ほか、保護者、教員など約380人が搭乗したという。
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この熱気球の写真を何人かの知り合いに送ったところ、さっそく友人のOさんから反応があった。「熱気球については、たしか高校のころに梅棹エリオの『イカロス5号』を読んで興奮しました。梅棹忠夫の息子さんと知ったのはその後だと思います。その後に熱気球ブームがありましたが、梅棹エリオはあまり表に出てきませんでしたね。それもなかなかよかった。」その本とは『熱気球 イカロス5号』(梅棹エリオ著、中央公論社)のことだ。
さっそく、近くの図書館で探してみると、区内の図書館には初版の親本と同書の「ついに飛んだ」の章を抄録している『少年少女日本文学館 30 ノンフィクション名作選』(講談社、1988年)の2冊があった。後者では向田邦子、灰谷健次郎、河合雅雄、椎名誠、植村直己、黒柳徹子、小泉文夫、日高敏隆、澤地久枝に交じって、梅棹エリオは10人目の著者として堂々と登場している。
『熱気球 イカロス5号』初版本
エリオらは1969年9月28日、北海道の大地で日本初の熱気球飛行に成功した。熱気球にかける若者の情熱がストレートに伝わってくる。いま読み直してもなかなかいい。「一高校生が、空を飛ぶという大きな夢をあくまで追求し、ついに実現するにいたった行動記録として、さわやかな感動をあたえた。」「まるで少年のような興奮がすなおに表現されています。」(いずれも『ノンフィクション名作選』から)
1948年生まれの著者は、当時19歳。この体験を「若人の夢・風船旅行のスリル」と題して雑誌『旅』の1970年1月号に発表。親本の単行本はそれから2年後の1972年に出版されている。
実はこの頃、私は京都の親父の家の廊下歩く梅棹エリオ君いやエリオさんの姿を見ている。新宿書房が2012年に出版した小林祥一郎(1928~)さんの『死ぬまで編集者気分―新日本文学会・平凡社・マイクロソフト』。この本の中の〈平凡社〉の章に「『世界大百科年鑑』と『百科事典操縦法』」という節がある。小林さんは、販売会社のために百科事典の購入者へのサービス本を企画し、小松左京(1931~2011)、加藤秀俊(1930~2023)、梅棹忠夫(1920~2010)の3人に『百科事典操縦法』という本の原稿を頼んでいた。しかし梅棹さんだけがいつまでたっても、1行も原稿を書いてくれない。新米の私は小林さんのパシリとして、原稿をもらいに京都北白川の梅棹さん宅や京大の梅棹研究室に数回お邪魔したことがあった。もちろん、こんな若造の私などに原稿を書いてくれるわけもない。結局、小林さんのリライトにより、このガイドブックは1973年にようやく完成した。
『百科事典操縦法―1,000万人の情報整理法』新書判、196ページ
2月16日 『中日新聞』2月6日夕刊に掲載された記事(宮崎正嗣記者、前コラム103参照)が、『東京新聞』2月16日夕刊にも掲載された。実はこの記事、2月3日の『北陸中日新聞』に掲載されたことが、宇江敏勝さんからの手紙でわかった。「富山市の友人(読者)から、新聞のコピーが送られてきました。」また2月19日の『神奈川新聞』朝刊には、井口孝夫記者による取材記事が掲載された。
『東京新聞』2月16日夕刊と『神奈川新聞』2月19日朝刊
どれもうれしい記事だ。『神奈川新聞』の記事を読んだ野本三吉さん(横浜市在住)から、この日の朝早く電話があった。「とてもいい記事だよ」と。
2月18日 渋谷文化村オーチャードホールへ。18時から「第97回キネマ旬報ベストテン表彰式」。『キャメラを持った男たち−関東大震災を撮る−』が「文化映画ベスト・テン」の第1位に。映画製作関係者とともに参加。あらためて井上実監督、おめでとうございます。
2月23日 曳舟文化センター「第18回すみだ耐震化フォーラム2024」へ。ここで映画『キャメラを持った男たち−関東大震災を撮る−』が上映された。130人あまりの観客、だれひとりも中途退場しなかった! 関東大震災の際、旧陸軍被服廠跡で3万8000人が死んだ。ここ今は墨田区にある都立横網町公園となっていて、東京都慰霊堂がある。墨田区でのこの映画の上映にはとても意味がある。しかし区長と区議会議長のおふたりが、それぞれの挨拶をされた後、司会に「公務のために」と説明させ退場されてしまった。かれらにこそ、ぜひこの映画をじっくり見てほしかった。
2月28日 ラピュタ阿佐ヶ谷へ。11日から「OIZUMI東映現代劇の潮流2024」(全36作品)が開催されている。2015年、2016年に続く、シリーズ第3弾だ。「長らく上映機会が途絶えていたレア作が多数。職人技がキラリと光る、多種多様な東映東京作品」とカタログは語る。なんと今回は、村山新治監督の6作品が上映される。この日は19時から『消えた密航船』 (白黒・79分、1960年) を見た。北海道のある小さな漁港を舞台に展開するサスペンスドラマでああ。「犯罪ドラマ『七つ弾丸』以来、久しぶりに俊才村山新治監督がメガホンを担当する」(当時の映画館向けのチラシから)。村山新治自ら記した作品ノートによれば、この『消えた密航船』のクランクインは1960年2月、前作の『七つの弾丸』の公開(1959年10月)からかなり時間がたっている。村山新治は自分の本『村山新治、上野発五時三五分』の中で、この作品については、ひとことも触れてない。しかし、なかなかいい作品なのだ。
『消えた密航船』ポスター
あの川本三郎さんは『日本映画 隠れた名作―昭和30年代前後』(筒井清忠との共著、中央公論社、2014年)の中で、この『消えた密航船』を激賞している。同書の「村山新治」の章で、川本さんは、村山新治作品に中で、『故郷は緑なりき』を「恋愛映画の一級品」、「警視庁物語」シリーズでは「最高作の監督」とし、『消えた密航船』を「意外と面白いです。」と佳作にあげている。映画は知床(知床駅)という架空の漁港の街が舞台。探偵・川本はここでも動く。作家の桜木紫乃さんにDVDを送って、ロケ地を確かめている。釧路出身の桜木さんは、映画に出てくる公衆電話とその後ろに映っている蟹工場などから、「間違いない、ここは釧路です」と答えてくれたという。
村山新治は映画の台本(シナリオ)を大切に保存していた(『村山新治、上野発五時三五分』p350)。はたして、村山監督はこの『消えた密航船』の台本には、どんなメモやつぶやきを書き込んでいるのだろうか。