(102)本たちへ、そしてみなさん。ほんとうにありがとう
[2023/12/30]

2023年がまもなく終わる。この年は新宿書房にとっても私にとっても特別な年になった。とうとう新宿書房を閉業したのだ。10月30日をもって、長いあいだ私を助けてくれた加納千砂子さんも事務所を去った。
11月の中旬から、お世話になった皆様に「閉業のあいさつ」を送り始めた。すぐにたくさんの方から、温かいお言葉をいただいた。
さっそく共同通信文化部の田北明大(たきた・めいだい)記者が11月29日、取材のために中野白鷺の茅屋を訪ねていらした。田北さんの書いた記事は12月10日から、各地方紙に掲載され始めている。

12月26日には『神奈川新聞』報道部の井口孝夫さんが旧事務所に取材にやってこられ、また正月明けの1月10日には『中日新聞』文化芸能部の宮崎正嗣記者が「最後の取材」に、ここにいらっしゃる。おふたりがどんな記事を書かれるかとても楽しみである。

新宿書房の閉業にともない、倉庫在庫本の整理をこの春からずっと行なってきた。私の『新宿書房往来記』(2021年)を出版してくれ、新宿書房最後の本、『杉浦康平のアジアンデザイン』(2023年)の発売元になってくれた鎌倉にある出版社「港の人」。その港の人の上野勇治さんが、在庫がある本の中から、港の人の眼で選んだ120点ばかりの本を引き取ってくれ、販売してくれることになった。新宿書房(Shinjuku Shobo)の名にちなんで「SS(エスエス)文庫」と名付けられた。
港の人の中にSS文庫が誕生した。
12月5日、私はひとり、鎌倉に向かう。由比ヶ浜にある「港の人」社で、上野さんと井上有紀さんに、いままでのお礼と「SS文庫」のこれからのことを、よろしくとお願いした。

翌6日、私は紀伊田辺に向かった。加納さんは都合が悪くて不参加。40年をこえて長い間付き合ってくれた熊野の「山の作家」宇江敏勝さんに会いに行ったのだ。紀伊田辺駅からバスに乗り、「野中一方杉」で下車、ここから宇江さんの家が見える。お邪魔するのは何年ぶりだろうか。宇江さんと奥様の武子さんはいつものように元気だった。



翌日、宇江さんとふたりで熊野本宮に向かう。わたしが宇江さんの車を運転して、本宮の裏手にある「kumano森のふくろう文庫」を訪問した。ここは宇江さんの本をほぼ全部いつも置いてくれている。ご主人の安原克彦さんにお会いするのは実は初めてなのだ。熊野古道中辺路の横にあるこのお店には古道を歩く多くの外人旅行客も寄るので、安原さんは英文の熊野関係の本もたくさん置いている。宇江さんと喫茶室でコーヒーを飲みながら、安原さんと楽しいお話ができた。

11日から始まる週は忙しかった。この日の午後、神田神保町のミロンガで若い二人に会った。ひとりは「図書出版みぎわ」の堀郁夫さん。彼はできたばかりの新刊『「日本語」の文学が生まれた場所―極東20世紀の交差点』(黒川創著)を携えて。四六判上製608頁、本体価格3600円の大著である。同書には、1996年に新宿書房から刊行された『〈外地〉の日本語文学選』(全3巻、①「南方・南洋/台湾」②「満洲・内蒙古/樺太」③「朝鮮」)に所収された黒川創の「はじめに」「解説」「著者と作品について」が大幅に改稿され収録されている。なお、『〈外地〉の日本語文学選』(全3巻)は「SS文庫」(港の人)に在庫があります。堀さんは、ひとり出版社としてがんばっている。そうこうするうちに、田中ひろこさんの元気な声が。田中さんは、ワイズ出版に18年勤めて、いまはフリーの書籍編集者、ブックデザイナー(装丁・組版)、イベント企画に携わっている。若いふたりとの時間は楽しかった。
13日には、出版協の忘年会に久しぶりに。最後の会と思い、小石川後楽園の涵徳亭へ。会の終わりに「お別れの挨拶」をさせられた。
15日には旧新宿書房最後の忘年会。加納さん、私、そして妻の3人。加納さんと妻は高校の同級生なのだ。場所は文京区の須藤公園と不忍通りの間にある「千駄木寿司隆(すしりゅう)」。45日ぶりにあった加納さんはとても元気、寿司がうまい。
18日、椿山荘へ。第77回毎日出版文化賞の授賞式に。阿部卓也さんの『杉浦康平と写植の時代』(慶應義塾大学出版会)が特別賞を受賞したので呼ばれたのだ。同書には平凡社の『百科年鑑』についての記述があり、私の「紙の〈マルチメディア〉実験」(『時間のヒダ、空間のシワ・・・[時間地図]の試み―杉浦康平ダイヤグラム・コレクション』鹿島出版会、2014年、に所収)や『新宿書房往来記』(港の人、2021年)が参考文献として引用されている。授賞式の後の懇親会で旧写研の杏橋達磨さんや現役写植職人の駒井靖夫(プロスタディオ)のお二人にほんとうに久しぶりにお会いすることができた。

「ひとり編集者」となった私は、これから荒野をトボトボと歩いていく。両膝の人工膝関節置換の手術から1年半、経過もいい。こんな私を指して、さっそく「フーテンのツネ」「フーテンのムラツネ」と名付けてくれた人がいた。いいね、使わさせていただきます。
そして、このコラムもしばらく続けます。