(98)遥かなる木曽の山々から本の声が・・・
[2023/10/14]

9月の半ば、2泊3日で長野県木曽郡にある開田(かいだ)高原に行ってきた。宿は妻の古い友人、大森さん夫妻が経営している1棟のレンタル別荘、Nハウスだ。夫妻は開田高原に来て30年、Nハウスを始めて10年になるという。ここはかつて開田村といったが、2005年に木曽福島町と開田村・日義村・三岳村の3村が合併して、木曽郡「木曽町」となった。鉄道だとJR東海中央本線の木曽福島が最寄りの駅だが、われわれは中央道で塩尻まで行き、国道19号線を南に下り、木曽福島の宿場街には入らず、手前から国道361号線に入り、山を上り、開田高原に着いた。標高は1100~1300メートル、もう秋の気配を感じる。翌朝は5度だった。
この開田高原から本の声が聞こえてきたのだ。


地図「開田高原」


朝の開田高原と木曽御嶽山(3067メートル)
   2014年9月27日午前11時52分、木曽御嶽が噴火。火口近く
にいた登山者58人が死亡、5人が行方不明となった。

翌日、大森さん夫妻はわれわれを岐阜県の高山市にまで連れて行ってくれた。なんと開田高原から高山市まではほんとうに近い。昔は御嶽を真ん中にはさんだひとつの「くに」だったのだろう。長峰峠を越えると、1時間あまりで行くことができる。途中「野麦峠」に向かう県道の入り口をかすめ通る。ああこれがあの『あゝ野麦峠』(山本茂実、1968年)の舞台となった峠への街道かと、ひとり感慨に浸る。
高山市に入って最初に訪れたのが、高山市図書館煥章館(かんしょうかん)だ。2004年にできた洋風の鉄筋コンクリートの2階建のこの建物は、1873年(明治9)に開校した洋風木造建築造りの高山煥章小学校を、再現したものだそうだ。
2階の「近代文学館」に上がってみる。ここには高山を代表する4人の作家の文学活動と作品(書籍)が展示されていた。4人の作家とは、瀧井孝作、江馬修、福田夕咲(ゆうさく)、そして早船ちよ(1914~2005)だ。私はここで、1冊の本に出会うことができた。『ふるさと飛騨 自伝的随想集』(1970年4月、新宿書房=桜映画社出版部)。中外綜合印刷、太陽堂製本。桜映画社は当時、新宿区西新宿1丁目にあり、近くの京王プラザホテルはまだオープンしていなかった。この中外綜合印刷は桜映画のスポンサーのひとつ、中外製薬の系列印刷会社だった。新宿書房が法人として独立するのは、1974年1月のことだ。


「高山の近代文学者たちとその軌跡」


早船ちよのコーナー


『ふるさと飛騨 自伝的随想集』本扉

早船ちよ著『ふるさと飛騨 自伝的随想集』は、新宿書房の最初の本なのだ(『新宿書房往来記』p316「新宿書房刊行一覧 1970~2020」を参照)。1970年といえば、私は大学を卒業して、平凡社で新入社員として働き出していた時だ。父(村山英治)はどんな背景があって、この本を出版したのだろうか。著者の早船さんは、本書の中でこう書いている。「『ふるさと飛騨』が、1970年はじめに誕生した新宿書房の、第1冊目の本だということは、なんという、しあわせなめぐりあわせでしょう。」(「あとがき」から)
早船さんは1961年に、鋳物工場の多い埼玉県川口を舞台にした『キューポラのある街』を出版する。これが翌年に映画化され(日活、浦山桐郎監督、吉永小百合主演)、大いに話題になっていた。早船さんはすでに名の知れた作家になっていたのだ。開田高原から帰宅してから調べてみると、桜映画社の1963年の作品『原野の生きる』という劇映画の原作者は、「早船ちよ」となっていた。また夫の井野川潔(1908~1995 元教員、川口市生まれ)さんは、1930年ごろ郷土社で雑誌『綴方教室』を編集しており、戦時中はなんと朝日映画社に勤務したという。当時の朝日映画社には、父の村山英治も叔父の村山新治も在籍している。このあたりも早船ちよ夫妻との接点があったのかもしれない。

高山からの帰り道、私はもう1冊の本に出会うことになる。開田高原に戻ったところで、国道を離れ、牧野というバス停から山道に入る。しばらくすると左手に「タビタのパン」があった。


「タビタのパン」

ここは大森さん夫妻が愛してやまない、ヨーロッパ伝統の昔ながらの石窯田舎パン(カンパーニュ)をつくるお店だ。岩崎夫妻と山羊2頭、猫1匹が出迎えてくれる。さっそく前庭にあるテーブルに移り、パンとお茶をいただく。
タビタのパンの始まりは1989年。ふたりはいばらの茂ったこの原野を切り開き、古材を集め、自分たちの力で家を建て始めたという。標高1200メートル、当初は電気もない生活。ランプとティピーの暮らしの中、3人の子供も育てた。子供たちはいまや独立している。
私が山尾三省さんの本を出したことがあると話したところ、ご主人の岩崎さんの顔が急に輝き出し、西荻のプラサード書店や店主のキコリさんのことを熱心にお話しになる。このプラサード書店は山尾さんの最初の本、『聖老人―百姓・詩人・信仰者として』(1981)を出版した。わたしが三省さんの『縄文杉の木蔭にて―屋久島通信』を出版したのは、1985年7月のことだ。装丁はあの鈴木一誌さん。


『縄文杉の木蔭にて―屋久島通信』カバー表

山尾さんは当時、『天竺南蛮情報』(1982年創刊~2002年終刊)という雑誌に「屋久島通信」というエッセイを連載していた。この月刊誌は東京ジューキ食品の山岡昭男さんが発行していた。山岡さんにも相談して、山尾さんの本を出そうと、私は何回かプラサード書店に相談に行っている(『新宿書房往来記』参照)。

東京に帰ると、岩崎ご夫妻に『新宿書房往来記』を送る。すると、お礼にタビタのパンが送られてきた。その中に岩崎さんの手紙が入っていた。
「さっそく本をお送りくださり、ありがとうございます。なつかしい山尾三省さんの名前にふれ、なつかしさと、なぐさめられた感謝がわいてきました。20代何をしていいかわからない時、三省さんの“ことば”に沢山はげまされました。ありがとうございます。また近くにいらした時は、お寄りください。」