親しくさせていただいている方から、息子が読んだものだが、これ読みませんかと手渡された本があった。いつも無知なわたしにいろいろな世界を教えてくださる。その本は『反戦川柳人 鶴彬の獄死』(佐高信、集英社新書)という。3月22日に出たばかりの新刊だ。なんと読むのだろうか。「鶴彬」が読めない。川柳作家で「ツル・アキラ」と読むそうだ。本名は喜多一二(きた・かつじ)。1909年(明治42)、石川県河北郡高松町(現・かほく市高松)に生まれ、1938年(昭和13)9月に死亡。わずか29歳でその短い人生を終えたプロレタリア川柳人だ。
佐高の本は、歴史の波の中に沈み今にも隠れそうになっていた叛逆の川柳人・鶴彬の存在と彼の作品を、後世に遺そうと奔走してきた人々を紹介した、熱情あふれる列伝である。とくに、一叩人(いつこうじん)、澤地久枝、坂本幸四郎の3人はまさに獅子奮迅の活躍をする。私は鶴彬をまるで知らないばかりか、ここにあの澤地久枝さんが登場することにまず驚いた。そして彼女の鶴彬への想いを知ることになる。
近くの図書館に行ってみた。まず事典類に「鶴彬」の項目があるのかどうか。『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)には人名項目はおろか、索引項目にも登場しない。
幸い、ここの図書館には、『鶴彬全集』(一叩人編著、たいまつ社、1977)があった。一叩人、本名・命尾(めいお)小太郎(1912~99)は、1962年9月に川柳を始め、この年の12月に鶴彬のことを初めて知る。一叩人は1972年から2年がかりで『反戦川柳人鶴彬の記録』を発行する。これは全3巻935頁、ガリ版刷りの本(文庫版)であり、一叩人はひとりで原紙を切って印刷し、文字通り手づくりの全集であった。これによって鶴彬の短い生涯でよまれた八百数十の作品(川柳)が生き延びたのだ。それは、後にたいまつ社から『鶴彬全集』として出版された。執念の人、この一叩人がいなければ、鶴彬の事績は現在のように残らなかったにちがいない。
そしてもう一人の執念の人、澤地久枝はこの『反戦川柳人鶴彬の記録』に出会い、一叩人が死ぬ1年前に『鶴彬全集(増補改訂復刻版)』(鶴彬著、一叩人編、久枝、1998)を出版する。私家版で版元名は自分の名前を取って「久枝」、492頁、部数は500部、定価は16000円だった。
たいまつ社版『鶴彬全集』の表紙
久枝版『鶴彬全集』の表紙
図書館には『現代日本 朝日人物事典』(朝日新聞社)と『民間学事典(人名編)』(三省堂)もあった。2事典とも「鶴彬」の項目があり、執筆者はどちらも坂本幸四郎だ。『民間学事典(人名編)』には、鶴彬と同時代の川柳人・井上剣花坊の項目(これも坂本幸四郎)もあった。坂本はどちらの項目の末尾に鶴彬の代表句として、以下の川柳を紹介している。
手と足をもいだ丸太にしてかえし
これは1937年7月に勃発した日中戦争直後に発表したもの。丸太は負傷兵を指す隠語だ。
鶴彬は1937年(昭和12、28歳)12月3日に特高警察に検挙され、東京市中野区の野方警察署に留置される。翌年8月、野方署留置場で赤痢に罹り、収監のまま淀橋区柏木町の東京市立豊多摩病院に入院。9月14日午後3時40分死去、享年29だった。
鶴彬を偲ぶ句碑は生まれ故郷の石川県かほく市、金沢市、墓のある岩手県盛岡市、大阪城公園内衛戍監獄跡の4カ所にあるという。鶴彬の終焉(しゅうえん)の地である東京・淀橋区柏木町(現・新宿区北新宿)のにも句碑を建立したいと、「東京鶴彬顕彰会」が発足したのは2013年。しかし、それから10年、これはいまだに実現していない。
参考文献
『だから、鶴彬 抵抗する17文字』(楜沢健著、春陽堂書店、2011)
鶴彬全川柳 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001674/files/54899_71675.html
鶴彬通信「はばたき」42号
https://tsuruakira.jp/2023/02/06/20230206/
鶴彬関連図書
https://tsuruakira.jp/books/