(74)1993年のこと
[2023/2/25]

1993年5月15日、Jリーグは開幕30周年を迎える、実はこのJリーグの誕生を私は間近で立ち会っている。とは言っても私はサッカーをしないし、Jリーグの関係者でもない。

1980年代、新宿書房は市ヶ谷駅から近い、千代田区九段南の靖国通り沿いのビルの中にあった。その時代、蘆原英了(あしはら・えいりょう 1907~1981)さんの本を続けて出したことがあった。
当時四谷にあったフィルムアート社の奈良義巳さんから、企画したまま眠っている原稿があるといって渡されたのだ。それが雑誌連載の原稿(『TBS調査情報』1980年1月号~12月号、蘆原英了「私の半自叙伝」)だ。1982年ごろのことだろう。夫人で料理研究家の蘆原多摩子(1919~2015)さんとも親しくさせていただき、次々と本にすることができた。蘆原さんは平凡社とも縁のあった方だったが、私は生前に一度もお会いしたことはなかった。
『私の半自叙伝』(1983年)*
『サーカス研究』(1984年)
『シャンソンの手帖』(1985年)
『舞踊と身体』(1986年)
装丁はいずれも田村義也(1923~2003)さんだ。

1983年ごろだったか、ある日、未知の方から電話があった。なんでもここ新宿書房から近い、「東峰(とうほう)書房」のご主人だそうで、蘆原英了の本を出し始めた新宿書房のことにとても興味があるようだった。無学無知の私は、とっさに東峰書房と聞いても何もわからない。当時は、パソコンもない。古本屋さんかなと思った。
何回かの熱心なお誘いもあって、ある日お茶をいただきに伺うことにした。ちょうど通り2本南のほぼ裏手に東峰書房はあった。古い木造の長屋のような造り、何社かの出版社が同じ屋根の下に同居していた。東峰書房は本に埋もれていた。タバコの煙で茶色に塗り込められたような編集室に、社長ご夫妻が座っていた。その部屋は、そのまま映画やテレビのセットに使えそうだった。
いろいろ出版されてきた本を見せてもらった。河井寛次郎(『炉辺談話』)や池田三四郎(『松本民芸家具』)など民芸運動関係の本や渡辺紳一郎(『古典語典』)などを出してきた、たいへん由緒ある出版社であることがわかった。何回か呼ばれているうちに、先方のネライがわかってきた。社長の三ツ木幹人さん夫妻は、自分たちはもう歳なので、だれかにこの東峰書房を引き取って、つまり買い取ってほしい、そういうことだった。
しかし、お金もない、しかも出版ジャンルも違うので、私はこの申し出には、お断りした。しかし、夫妻は熱心に、別に継承を希望する人がいたら紹介してほしいという。
この時期には九品仏にあった編集装丁家の田村義也さんの家に頻繁に出入りするようになっていた。田村宅にはいつも数人の編集者がたむろしていた。その田村宅で高橋衛(たかはし・まもる)さんに初めて会う。彼は当時、花曜社(かようしゃ)にいた頃で、ちょうど小中陽太郎の『溶解する思想』(1981年)の装丁のお願いに来ていたのだ。私の前で、高橋さんは田村さんに叱られている。「なんでISBNなんかカバーに付けるんだ。カバーの装丁に邪魔だ」と。その頃、ISBNをカバー表4、裏の右上隅に置くことを、出版界で推奨され始めていた。当時デザイナーはみな、これが嫌いだった。
次に会った時、高橋さんは恒文社(ベースボール・マガジン社)の編集者だった。なんでも創業者と同郷の縁で入社したという。そして私が東峰書房の三ツ木さんに会った時には、高橋さんはそこも辞めてフリーの編集者になっていた。東峰書房の話をすると、彼はすぐに興味を示した。骨董美術などの出版に興味があるらしい。ぜひ紹介してほしいという。ある時、高橋さんを連れていって、三ツ木さん夫妻に紹介した。
そうこうするうちに、高橋さんは東峰書房に出入りし始め、1984年末ごろには代表者におさまっていた。私と高橋さんとは昼飯をときどき誘い合う、ご近所友だちになっていた。**

1990年を過ぎた頃だ。高橋さんの誘いで仕事が終わってから、体操のトレーニング教室に通うことになった。教室は千駄ヶ谷駅から近い国立競技場(前の建物で正式には「国立霞ヶ丘競技場陸上競技場」という)のスタンド(席)下にあった。半地下のトレーニング・ルームからは、フィールドで行われている各種のスポーツ競技を覗くことができた。そのうち、年が変わり、今度はランニング教室に通うようになる。なにも競技がない夜には、あのスタジアムのトラックの上を走った。このランニング教室のおかげで、私は1994年のホノルルマラソンに参加し、完走もした。いまのヨボヨボ老人からは、想像できないハナシだが、30年ほど前のことだ。
というわけで半地下のトレーニング・ルームから、Jリーグの誕生の場面や試合の証人になったのだ。これが私の「1993年の物語」だ。

高橋衛さんは、その後、東峰書房を離れている。いまはどんな暮らしをしているのかな。

*最初の本、『私の半自叙伝』は、24年後に構成を変え、あらたなエッセイも加え、人名索引もつくり、改題して『僕の二人のおじさん、藤田嗣治と小山内薫』として、2007年に刊行した。装丁は田村義也さんと縁の深い、桂川潤(1958~2021)さんだ。
**高橋衛さんは、1986年に英文学者の須山静夫さんの『腰に帯して、男らしくせよ』を東峰書房から出版している(装丁=田村義也)。高橋さんにとってかつて在籍した花曜社から出版した須山さんの最初の本『神の残した黒い穴――現代アメリカ南部小説』(1978年)に次ぐ本になる。さらに高橋さんは東峰書房を離れたあと、須山さんの自伝小説『墨染めに咲け』(2008年、発売=新宿書房)の編集・出版をしている。じつはこれらの本が、須山さんと師弟関係あった英文学者・尾崎俊介さんの『S先生のこと』(新宿書房、2013年 第61回日本エッセイスト・クラブ賞受賞)の伏線になる、長い、長い話は、別の機会に書こうと思う。