前回のコラムを書いた後に、澤地久枝さんの『琉球布紀行(りゅうきゅう・ぬの・きこう)』(新潮社、2000年)という本があることを知った。今は新潮文庫版も出ている。
澤地久枝さん(1930~)は2001年5月3日の憲法集会でこんなことを言う。「2年と50日――私の67歳から69歳までの時間になりますが、沖縄の琉球大学でもぐり聴講をしました。きょう着ている着物も帯も紅型(びんがた)です。私はショーウインドウになろうと思っているのです。」
澤地さんは戦後史を学ぶために沖縄に渡る。その2年間に沖縄の染め織りの里を訪ねる。「一人の〈きもの好き〉が好奇心に駆られるまま、未知の世界へはるばると旅をしてきた。これほど困難な道程と知っていれば、おそらくわたしは手をつけなかったと思う。沖縄で暮らした時間は二年と五十日。大学へ通う合間に、琉球の布への夢に憑(つ)かれて、島から島へと旅をした。沖縄本島でも南から北まで、よく歩いた。」(「あとがき」『琉球布紀行』から)
本書の元になる文章は、雑誌『SINRA(シンラ)』で1999年1月号から12月号まで連載されたものである。毎回4000字の文章、それに垂見健吾さんの写真が添えられている。訪ねた染め織の里は、「首里の紅型」(前編・後編)「読谷山花織(ゆんたん・ざ・はなうい)と手巾(てぃさーじ)」「奄美大島紬」「久米島紬」「宮古上布」「喜如嘉(きじょか)の芭蕉布」「八重山上布」「琉球藍」「与那国織」「琉球絣」「首里織」の11の工房だ。単行本にする際には、連載では書ききれない多くのことがあり、工房を訪ねなおして加筆している。さらには、新たに「逢えなかった人 大城志津子」の章を書き加えた。大城志津子(1931~89)は、沖縄の伝統織物の復元に功績を残した染色家だ。琉球大学教授をへて、1989年から沖縄県立芸術大学教授を務め、在職のまま亡くなった。大城さんは死の4カ月前の1988年12月に用美社から『大城志津子作品集』を出版していた。
『琉球布紀行』表紙
本書収録の「芭蕉屋〈ハイカラ〉敏ちゃん 喜如嘉の芭蕉布」から、平良敏子(たいら・としこ)さんのことをさらにいろいろ知った。〈ハイカラ〉敏ちゃんの由来は、村で最初に洋服をきたのも敏子さんなら、子供がはだしで通学していた時代に、おさがりであっても最初に革靴をはいたのも敏子さんだったからだ。村の人たちから〈ハイカラ〉敏ちゃんと呼ばれていたという。
戦時色におおわれた1943年(昭和18)に、日本民藝運動の創始者のひとり、柳宗悦が4回の沖縄行きの成果のひとつとして、『芭蕉布物語』をひっそりと出版した。この本の刊行時、平良敏子さんは上京して、会社の食堂などに調理・賄い役を派遣する会社で働いていたという。敏子さんはまだ『芭蕉布物語』を知らない。
その後、父に喜如嘉に連れ戻された後、1944年3月、本土の工場への女子挺身隊員の募集に応募、倉敷の軍需工場で働くことになる。敏子さんは24歳になっていた。1945年6月、沖縄玉砕のニュースが届く。敗戦後、勤め始めた倉敷紡績の大原總一郎社長は沖縄出身者にとくに温情をそそいだ。のちの倉敷民藝館館長になる染色家の外村吉之助からは、織物の手ほどきを受ける。この時、敏子さんは柳宗悦の『芭蕉布物語』に初めて出会う。(コラム(54)参照)
「織りは心だ」という言葉を外村から聞く。焦土となった故郷にようやく帰ることができた敏子さんらに、倉敷駅まで見送りに来た大原總一郎が言った。「沖縄に帰ったら、沖縄の織物を守り育ててほしいなあ」。
澤地久枝さんは、首里から山原(やんばる)の大宜味村の喜如嘉へ1日かけて通う。それも何回も、何回も。芭蕉布ができるまでの工程を見に通うのだ。
「戦後に再生させるまでの体験をふくめて、琉球の布の制作現場を訪ねることは、作り手たちの背後にひろがる戦争体験と琉球のきびしい歴史を辿る旅にもなった。」(「手仕事の現場」『道づれは好奇心』澤地久枝、講談社、2002年)
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『琉球布紀行』は、澤地久枝さんが琉球弧の布にまつわる歴史と人との物語の向こうに、「オキナワ」の姿を見事に浮かびあがらせた素晴らしい本だ。
さて、澤地さん、澤地さんと私が妙に親しげに呼んでいることに気がついた読者がいるかもしれない。実は50年前に、私は澤地さんに執筆を頼んでいる。その原稿をいただきに、渋谷区のお宅にうかがい、お茶までご馳走になった。20代半ばの青年を歓待してくれたのだ。何の原稿を頼んだか、細部がおもいだせなかったが、国会図書館のサーチに助けられた。私がまだ平凡社の百科事典編集部にいたころだ。百科事典購入の読者向けのPR誌に『月刊百科』というのがあって、百科事典編集部員の私も片手間に編集を手伝っていた。
1972年12月号の特集は「女性史への視点」だった。澤地久枝さんには「忘れられた暦」というエッセイを書いてもらった。澤地さんはこの年にほぼ初めての本、『妻たちの二・二六事件』(中央公論社)を出され、大きな話題になっていたのだ。