(47)大田洋子と丸木位里
[2022/7/30]

となりのおばさん、作家・大田洋子(1903~63)は、空襲を逃れて1945年(昭和20)1月に東京・練馬のアパートから、広島市白島九軒町(はくしまくけんちょう)の妹宅に疎開する。8月6日午前8時15分、爆心から約1・4キロ離れた妹宅で母、妹家族とともに原爆被曝、さいわい顔にかすり傷を負った程度で他に外傷はなかった。3日間、河原で他の避難民とともに広島市の炎上を見て過ごす。その後、生まれ故郷の佐伯郡玖島(くじま)村の知人宅に逃れる。避難先にはペンや原稿用紙はおろか、1枚の紙、1本の鉛筆さえもなかった。大田洋子は寄寓先の家や村の知人から、障子からはがした茶色に煤けた障子紙、ちり紙と数本の鉛筆をもらい、被曝から避難生活までをひたすら記録する。8月30日号の『朝日新聞』に発表した「海底のやうな光―原子爆弾の空襲に遭って―」は、被曝の衝撃と原爆症による死の恐怖におびえながら、手当たりしだいの紙に原爆の惨状を書きつけたもので、敗戦直後いち早く書かれた原爆被曝の報告記であり、これが後の最初の原爆小説『屍(しかばね)の街』になる(江刺昭子『草饐(くさずえ)』、大月書店、1981、などより)。
一方、日本画家・丸木位里(1901~95)は、疎開先の浦和市で8月6日、広島に「新型爆弾」が投下されたことを知る。位里の両親や妹弟の家族たちが、爆心地から2・5キロ離れた広島市三滝町に暮らしていた。位里は空襲を避けながら進む汽車に乗り、ようやく9日に広島県内に入ることができた。両親や妹弟たちは生きていた。妻の丸木(赤松)俊子が位里の後を追って広島に到着したのが8月20日頃だった。丸木夫妻はおよそ1ヶ月間広島に滞在した(岡村幸宣『《原爆の図》全国巡回』新宿書房、2015、より)。

大田洋子は再び上京、1948年(昭和23)11月に中央公論社から念願の『屍の街』(削除版)を刊行することができた。1950年5月には冬芽書房から『屍の街』(完全版)を刊行、社会派作家、原爆作家として評判を呼んだ。


『屍の街』中央公論社版(1948)装丁は福澤一郎。出版社はGHQのプレスコード
をおそれ、あまりに悲惨な場面や米軍を批判した箇所を自主的に削除した。


『屍の街』冬芽書房版(1950)完全版(箱入り)

1950年8月18日午後5時半から、東京・有楽町の日本交通協会で「丸木・赤松夫妻原爆の図三部作完成記念会」が行われた。案内のチラシには、「話をする人」の中に大田洋子が入っている。実際に大田洋子は当日会場で挨拶をしている(『《原爆の図》全国巡回』p 64)。その頃、丸木・赤松夫妻は神奈川県藤沢市片瀬にある児童文学者の筒井敬介所有の山小屋を借りて住んでいた。大田洋子の『屍の街』などから想を得たといわれる「原爆の図三部作」は、このアトリエの中から生まれたのだ。

広島の空の下に生まれた大田洋子と丸木位里のふたりは、原爆投下という運命によって、戦後になって初めて出会ったのではない。『草饐』と『丸木位里画文集 流々(るる)遍歴』(岩波書店、1988)を改めて読んでみると、興味深い記述を発見することができた。
「1924年(大正13)21歳 広島県庁に和文タイピストとして就職。かたわら市内の新劇グループに属して芝居をやったり、短歌や小説を書いた。」「新しもの好きだった洋子はこの頃(中略)、十一人座という芝居グループに入って、ルナールの『にんじん』のフランソワ・ルピック(にんじん)役を演じたりもしている。」(『草饐』より)
「広島に寿座という芝居小屋があって、そこで十一人座という劇団が芝居をやっておった。わたしも十一人座の仲間だったが、その頃の出し物は菊池寛の『父帰る』や久米正雄の『地蔵教の由来』といったところで、そういう芝居をやりながら村から村を渉り歩いた時代もあったんだ。」「1927~30(昭和2~5)26~29歳 ・・・劇団十一人座の公演に参加。」(『丸木位里画文集 流々遍歴』より)
ふたりが「劇団十一人座」に関係していたのは事実だが、それぞれの年号や演目までもが違う。すこし調べてみると、『《原爆の図》全国巡回』の著者、岡村幸宣さんの丸木美術館学芸員日誌(2015年7月5日)にたどりつく。やはり、若き日にふたりは出会っていたかもしれない。岡村さんに聞くと、このあたりのことはその後の調査研究は進んでいないという。

丸木位里・俊の「原爆の図」の作品は1959年には第11部『母子像』まで完成している。その間、丸木夫妻のアトリエは藤沢市片瀬から1952年に、練馬区谷原に移転している。大田洋子が中野区鷺宮にようやく自分の家を持ったのが1950年代の初め、そして隣に私たち家族がひっこしてきたのが1955年の夏のことだ。この間、丸木夫妻と大田洋子との間になんらかの交流があったのだろうか。東松山に現在の「原爆の図丸木美術館」が開館したのが1967年5月だが、大田洋子はそこを訪れることはできなかった。大田は1963年12月10日に亡くなっている。