(46)隣に住んでいた作家
[2022/7/23]

先日、知らない人から電話があった。「突然で失礼します。お宅の隣にオオタ・ヨーコという作家が住んでいませんでしたか」懐かしい名前だ。「確かに住んでいましたが、ずいぶん昔に亡くなられて、いまは昔の建物もなく、まったく別な方が家を建てて住んでいます。当時の面影はなにもないですよ」「そうですか。近くに、なにか大田さんに関連するものは残っていませんか」「ないですね、お墓は広島市のようですし」相手はお礼を言って、電話を切った。
大田洋子(1903~63:散見する「太田」の表記はまちがい)。いまどのくらいの人がこの作家のことを知っているだろうか。広島県「ふくやま文学館」の作家名データは簡潔にまとまっている。

私たち家族が世田谷区深沢からここ中野区鷺宮(現・白鷺)に引っ越してきたのは、1955年(昭和30)年の夏だった。私は9歳、小学校3年生だった。この引っ越しには、父・英治の仕事が絡んでいた。それまで父は三井芸術プロダクションで文化映画の製作や脚本執筆の仕事を担当していた。私が桜町小学校1年2学期から3年1学期まで暮らした深沢の家というのは、三井家の大邸宅の一角にある大きな家(といってもかつては三井家邸内の雇われ植木職人の家だったという)だった。庭にはツツジの大きな築山もあった。三井さんの大邸宅は当時まだGHQに接収されていて、米軍将校の数家族が住んでいた。三井さんの借家から玉電の桜新町駅までは、道の両側に素晴らしい桜並木が続く立派なお屋敷街だった。
父は1955年1月に三井芸術プロをやめ、その年の6月に桜映画社を立ち上げる(『桜映画の仕事』桜映画社編、新宿書房、1992)。この中野の鷺宮の家を父がどうして決めたのだろうか。西武新宿線の鷺ノ宮駅(中野区)と下井草駅(杉並区)の中間にあり、下には妙正寺川と両脇に広がる水田を見下ろせる段丘の上に広がる雑木林の中にあった。近くの地主がこの雑木林を7、8軒に区割りした借地だった。ちょうど、我が家の西隣からはすでに住宅が何軒か立ってした。しかし、北側はキャベツやとうもろこし畑などの広がる農地だった。我が家の玄関から西武新宿線の電車が見えるほどの田舎だった。


鷺宮の大田家(『草饐』大月版、p 13から。左隣が村山宅)

我が家の西隣に細長い平屋の住宅があった。それが大田洋子さんの家だ。小学3年の私には、その方がどんな仕事をしているのか、もちろんわからない。
ところで「呼び出し電話」という言葉をご存知だろうか?国語辞典にはこう書いてある。「電話をもってない人が、電話のある近所の家に取り次いでもらって使う電話。」*
自宅に電話のない人々は名刺や年賀状に記す自宅の住所の横に、(呼)の文字で始まる隣近所の電話番号を記した。大田洋子さんも当時、電話を持っていなかった。そのため、新聞社や出版社から電話がかかってくると、大田さんの家まで走るのが私の仕事になった。「おおたさん、デンワですよ」そのおおたさん、大田洋子が「原爆作家」といわれる、有名な作家であることを知るのは、高校、大学の頃だっただろうか。私の記憶にほとんどこの大田洋子さんのことが残ってないのは、いつも気難しく、不機嫌なひとであったこと。幼いパシリである私に、たまにはお菓子をくれたり、笑顔を見せたり、優しい言葉をかけてくれる人では、けっしてなかったからだ。
今回、近くの図書館から『草饐(くさずえ)―評伝 大田洋子』(江刺昭子、大月書店、1981年)を借りてきた。元版は濤(なみ)書房から1971年に出版されている。女性史研究家の江刺昭子のデビュー作であり、翌年には第12回田村俊子賞を受賞している。この『草饐』を読んでいくと興味深い事柄がいくつかあった。まず、著者の江刺さん(旧姓は大川さん)は大田洋子さんが亡くなる1963年の前年暮からおよそ1年あまり、大田家の下宿人だったということだ。当時、早稲田大学の教育学部の4年生だった。四畳半を間借りしていたこの女子大生の存在は、私もわずかに覚えている。


『草饐』(濤書房、1971)函入り 

大田さんはいつ、この鷺宮の家を建てたのだろうか?
『草饐』にはこうある。「五〇年代の後半には、それでも洋子の生活は多少安定していて、それまでの間借り生活からようやく抜け出して、まだ武蔵野のおもかげの残っている西武線鷺宮に家を持つようなっていた。」(p202)とても曖昧な表現だ。私たちがここに住み始めたのが1955年6月、すでに隣には先住の大田家があった。
こんな記述もある。「日常生活では全くトラブルの多い人だった。私が伝え聞いた話を一つ。鷺宮に洋子が自分の家を建てて移り住んでからしばらくして隣の空地に家が立ち始めた。この家が大田家の東側に軒を接して建てられたため、東側は陽が当たらなくなった。洋子は早速隣家に怒鳴り込んだが話合いがつかず、弁護士まで雇って争うことになった。その結果がどういう話合いなったかしらないが、わたしの行った頃、隣家はそのままだった。」(p 214)
この隣家とは我が家、村山宅のことである。そんなトラブルがあったのかなと、5歳上の長兄に聞いてみる。「そんなことはなかった。そもそも、最初の村山宅は平家で、大田家と軒を接していたり、陽が当たらないことはなかったね。うちの南隣のYさん宅も平家だ。」
そうに違いない。大田さんとそんな悪い関係なら、私の「呼び出し電話」のパシリもなかっただろう。

今回、大田洋子のことを、いろいろ調べ、知った。大田洋子原作の劇映画が2本あることもわかった。『朝日新聞』懸賞小説で一等当選賞金1万円を獲得した『桜の国』(1940)を原作にした映画『桜の国』(1941、松竹)は渋谷実監督作品で、上原謙、高峰三枝子らが出演している。『流離(るり)の岸』(1956、日活)は新藤兼人監督作品で北原三枝のほか近代映協のメンバーが多数出演している。原作の『流離の岸』は1939年の作品だ。

今回の歩行訓練散歩の物語は数歩で終わってしまったな。

*三遊亭圓歌(二代目:1890~1960)に「呼び出し電話」という噺があるそうだ。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3577957 https://rakugonobutai.web.fc2.com/151yobidasidenwa/...