(41)普賢山落―ある芸術村の歴史
[2022/6/18]

いま戦後を代表するある美術家の年譜の原稿整理を手伝っている。その年譜の1960年代の中頃で、「普賢山落(ふげんさんらく)」ということばに出会う。私が、この「普賢山落」に出会うのは今回が初めてではない。

岡村幸宣さんの著書、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』(新宿書房、2020)の編集中のことであるから、2019年のことであろうか。2011年の「3・11」から始まるこの学芸員作業日誌。その2012年3月22日、岡村さんは、同年の5月20日から丸木美術館で始まる池田龍雄展の打ち合わせで、軽井沢の別荘地にある池田龍雄さんのアトリエ(カイト・ハウス)を訪ねた(『未来へ』p065)。
実はそこが軽井沢町ではなく、西隣町の御代田(みよた)町の「普賢山落」とよばれる別荘地・芸術村の中であることがわかった。その時も参照した「別荘地〈普賢山落〉におけるコミュニティ形成に関する研究」(2011)を、今回あらためて読んでみた。現在は筑波大教授になっている花里俊廣(はなざと・としひろ)さんらによる研究論文だ。「戸建てコーポラティブ」のコミュニティの誕生とその歴史を丹念に調べている。

写真家の大辻清司(おおつじ・きよじ 1963~2001)は1962年、あることが縁で長野県北佐久郡御代田町塩野にある黄檗宗の普賢寺から、同寺の寺領地を貸してもらえることになる。その土地は浅間山の南麓の緩傾斜地で、およそ1万3000坪、海抜約1000メートル弱、はるか南には八ヶ岳連山が見える素晴らしい眺望の開けた雑木林だった。
大辻らは1区画あたり300坪平均と考え、戸数45戸と想定し、「村づくりへのおさそい」という印刷物をつくり、手分けして若手のクリエーターら60人余りに声をかけた。その結果、44人が村づくりに参加した。写真関係13名(大辻、秋山庄太郎、中村正也、早崎治ら)、デザイン関係13名(柳宗理、杉浦康平、勝井三雄ら)、著述・評論関係6名(秋山ちえ子、水尾比呂志ら)、美術・彫刻関係2名(池田龍雄ら)、音楽関係3名(武満徹、大野松雄、吉田正)、出版・広告関係3名、その他4名。今そのメンバーをみるとそうそうたる人たちだ。ものづくりの人々が多く参加し、その中心は若い写真家とデザイナーたちだった。
1963年3月31日に第1回総会を開いた。そこで当時の御代田町町長から「普賢山落(ふげんさんらく)」という村名が贈られる。土地区割りも決まり、地鎮祭は1963年5月5日に行われたというから、いかに参加者たちが精力的にこの村の建設に関わったことがわかる。


「普賢山落案内図」


「普賢山落祭風景」いずれも、花里論文より

当時の国鉄信越本線は碓氷峠を越えると軽井沢駅(長野県北佐久郡軽井沢町)だ。そして同じ町内の中軽井沢、信濃追分の2駅を過ぎて、隣町の御代田駅に着く。1964年当時の時刻表によれば、東京・上野駅8時01分発の長野駅行き急行「信州1号」に乗ると、急行停車駅の中軽井沢駅には11時01分に着く。『普賢山落史』には、この駅から村まではタクシーで500円とある。
1964年(昭和39)はオリンピック東京大会が開催され、軽井沢にも多くの観光客が来ていた。「軽井沢年表」という資料では、1964年に町に来た夏期避暑客は204万9000人になったとある。この避暑大ブームと、軽井沢の喧騒から少し離れた静かな雑木林の中に、若い写真家とデザイナーたちによって、芸術村「普賢山落」が誕生したことに、大きな関連があることは間違いないだろう。

花里論文から、杉浦康平さん(1932~)が1964年から「普賢山落」の第一次所有者、村民であったことを改めて知った。しかし、その後起きた「広域農道反対運動」も行政側に押し切られ、1993年にその「広域農道サンライン」は遂に開通。その結果、杉浦さん、勝井三雄さん(1931~2019)ら4戸の別荘は立ち退きを余儀なくされ、これらの村人たちは普賢山落会からも離脱してしまったという。
国道18号線を軽井沢から西に進み追分宿を過ぎると、「浅間サンライン入口」(広域農道)があり、しばらく行くと「普賢山落」の表示のある交差点に行き着く。ここが今の村の入口だ。村人の入れ替わりも激しく、花里調査(2010年)の段階でも50年前のオリジナルのメンバー(原村民)は10人、つまり4分の1以下になっていた。それから12年が過ぎ、村はどうなっているのだろうか。夏の恒例「普賢山落祭」のイベントは、今でも行われているのだろうか。
「普賢山落」という別荘村(芸術村)は、不動産業者の開発などでなく、普通の人たちが集まり、村のきまり(垣根や塀をつくらない、遊び場としての村の祭を行う、など)を作り、強い共同意識のもとに一つの「コミュニティ」を目指した。またそれぞれ村人の別荘建築にもお互い情報を交換して、一流の建築家(篠原一男「土間のある家」、清家清「茅葺きの山小屋」、宮脇檀「おにぎりの家」など)の参加を得て、村の居住空間の開放性、多様性につなげることに成功した。50年以上も前に実現し、そのコンセプトが今もって続いていることは、日本の生活文化集団の歴史の中で、特筆すべきことではないだろうか。

岡村幸宣さんの『未来へ』が刊行されたのが、2020年3月10日。「普賢山落」の村民、池田龍雄さん(1928~2020)は、この年の11月30日に亡くなった。92歳だった。池田龍雄さんの『夢・現・記(む・げん・き)一画家の時代への証言』(現代企画室、1990)の巻末にある略年譜をみると、「1960年 年末に運転免許を取得」とある。池田さんは車で東京から「普賢山落」に出かけて行ったに違いない。上信越自動車道の藤岡~佐久間が開通したのが1993年3月だから、地道の国道18号線を使っての山落行きはさぞたいへんだっただろう。