(40)民衆版画の世界はどこまでも広がる
[2022/6/11]

先日、新聞記事(『朝日新聞』5月31日夕刊、大西若人記者)で、東京・町田の国際版画美術館で開催中の展覧会を知った。膝の手術後のこともあり、町田は遠い。図録を取り寄せることにした。
彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動』、サブキャッチがいい。「工場で、田んぼで、教室でみんな、かつては版画家だった」。企画構成は同美術館の町村悠香学芸員。
2つの版画運動とは、1949年と51年にそれぞれ誕生した日本版画運動協会と日本教育版画協会のことだ。前者では滝平二郎、鈴木賢二、上野誠らの版画家が主導し、後者では大田耕士(1909~98 娘は大田朱美・宮崎駿夫人)らが教育版画運動と生活版画の普及に努めた。もちろん、この2つの民衆版画運動の交差もあった。


ポスター


図録表紙

1947年2月、神戸・大丸百貨店と東京・銀座三越画廊でほぼ同じ時期に「中国木刻画展」が開かれる。中国木刻(もっこく、木版画)とは、1930年代に魯迅が始めた「木刻運動」に由来し、抗日戦争のなかでひろまった民族文化啓蒙運動だ。文字を読めない人たちにも、木刻画でさまざまなメッセージを伝えようとした。この「中国木刻画展」の巡回展が、最初は北関東の茨城・栃木の市や町から始まり、たちまち燎原の火のように広がり、敗戦2年後の日本各地を巡ることになった。
木版画はまず、技術的、経費的な便利さがあり、複製も簡単だった。敗戦時すべてを失い、情報発信の手段をなにも持たなかった芸術家、教育者(と児童)、労働運動家(と労働者)の心をつかんだ。またポスターやチラシ、機関紙(誌)、同人誌(紙)などは、制作とその普及が一体化できる、正に自立した表現方法だった。そのうえ木版画のもつ強い線、強烈な陰影の画像は、民衆の心にストレートに届いたのだ。
図録『彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動』には、無着成恭(1927~)の山びこ学校、上野誠、上野英信など、私のコラムや『新宿書房往来記』(港の人、2021年)でもお馴染みの事柄や人びとがたくさん登場する。昨年7月5日に亡くなった装丁家の桂川潤さんの父親の桂川寛や安部公房、勅使河原宏らの文化工作隊の下丸子文化集団の詩集なども登場する。
そして、この展覧会は、二つの版画運動展、『闇に刻む光――アジアの木版画展1930s-2010s』*と『上野誠版画展―『原爆の長崎』への道程―』⁑を立ち上げた学芸員たちの連携と努力から誕生したことがわかる。
  *福岡アジア美術館(2018/11.23~2019/1.20)アーツ前橋(2019/2.2~3.24)
 ⁑立命館大学国際平和ミュージアム(2019/11.7~12.18)


『闇に刻む光』


『上野誠版画展』

『彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動』のなかで、教育版画運動の展示がすばらしい。ここで、わたしは一人の人物名を見つけた。佐々木賢太郎(1923~1994)だ。佐々木は1946年に復員、和歌山県西牟婁郡白浜町立白浜中学校の体育教師となり、「生命を守る体育」を目指す「生活体育」を提唱し、版画教育も広めていく。その活動は大田耕士や上野誠がその著書で大きく取りあげた。1956年に、佐々木は『体育の子―生活体育をめざして』(新評論社)を出版する。
我が熊野・山の作家・宇江敏勝さん(1937~)が、おなじ西牟婁郡近野(ちかの)村立近野中学校に入学したのが、1950年。ここで生涯の恩師・杉中浩一郎先生(1922~2019)に出会う。さっそく、宇江さんに電話をしてみる。「佐々木賢太郎、名前は知っているよ。本(『体育の子』)も持っている。でもたぶん会ってはいない。杉中先生なら教員仲間としていろいろ話が聞けたのにな」。

偶然のことだが、ある人から、『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』(白凛(ペク・ルン)、明石書店、2021)という本が出ていることを教えてもらった。さっそく、近くの図書館から借りてみた。第5章のタイトルが「日本人美術家との接点」だ。その中に「日本版画運動協会」という節があったが、わずか5行の文章でしかない。『彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動』との重なりは見えない。
しかし、いろいろ調べていくと、企画展示「在日朝鮮人美術史に見る美術教育者たちの足跡」(主催=「版画運動新聞」を読む会)が2022年3月18日~21日と同25日~27日にかけて、京都市の同志社大学寒梅館で開催されていたことがわかった(『京都新聞』)。


『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』口絵


本扉 


「在日朝鮮人美術史に見る美術教育者たちの足跡」(ポスター)

この企画は、『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』の著者・白凛さんがコーディネートしている。展示会を終えて、白さんは「美術作品は、ただ展示するだけでなく、作品の意義をどのように伝え発信するのかが大事だと考えている。今回の展示会を通じて、戦後日本における版画教育史と朝鮮学校における美術教育との関連性を探ることができた」と感想を述べている。
また先の新聞記事には、「シンポジウムでは、東京都町田市立国際版画美術館の学芸員・町村悠香さんが、青山(武美)さんも熱心に取り組んだ教育版画の歴史的経緯について講演。戦後、労働運動や平和運動を版画で伝えようとする動きから派生したとし、〈生活に根ざしたリアリズムを重視していた。版画を通じて人間形成を目指した取り組みで、民族教育を深める意味もあった〉と話した」とある。朝鮮学校の日本人美術教師・青山武美(1908~80)については、白凛さんの『在日朝鮮人美術史1945-1962 美術家たちの表現活動の記録』の中で詳しく書かれている。