(39)いよいよ退院――囲町から 続々
[2022/6/4]

「入院雑記」3回目、退院までを簡単に記して終わることにする。

5月に入るとリハビリは杖を使っての歩行に移る。私は右利きであることと、どちらかというと現状では左膝のほうが多少腫れているので、右手で杖を持つ。杖つきの歩行には「3動作歩行」と「2動作歩行」があるそうで、私は「2動作」で歩行することになる。つまり、1)杖と左足を同時に前に出し、2)右足を前に出す、この繰り返しだ。夕食後も看護師さんの見守りで、スタッフルームを杖つき歩行で2周する。この結果、病棟8階に限り、杖つき歩行オーケーの許可が下りる。しかし、1階のローソンへの買い物はまだ歩行器(カート)で降りて行く。
5月6日の午後のリハビリ、初めて病院の外に出て、杖つきで駐車場の周りを歩く。入院した時に咲いていた赤紫のツツジの花はもう茶色に萎んでいた。この時の歩行距離は、1600メートル。しかし「歩行は距離でなく時間です」と言われる。午後になって、12日の退院が決まる。
8日の歩行記録。8階病棟のラウンジまで杖、1階コンビニへはカート。午前にスタッフルーム2周、杖あり。昼食後ふたたびスタッフルーム2周、杖あり。夕食後、スタッフルーム2周、杖あり。
9日の歩行も8日並み。リハビリでは外の駐車場を杖なしで2周!夕食後、スタッフルームを杖ありで2周。ここで病院全館の杖での歩行が許される。
10日、杖で1階のコンビニへ。100円コーヒーと、前日高橋美江さんに電話で言われた『クロワッサン』5月10日発売号を買う。「女の新聞」に美江さんが登場しているのだ。

ついに12日10時半、退院。この日も、次兄が車を出してくれた。退院後の最初の外来は6月14日だ。ここで主治医のF先生に傷の経過、歩行などをみてもらい、たぶん自動車運転のOKをいただけるはずだ。リハビリテーション科のSさんからもらった毎日4つの宿題。1日30分の歩行(できれば杖なし)、両膝下の座布団潰し・3秒・30回、膝の水平伸ばし・3秒・30回、足指の運動(タオルギャザリング)、これを忘れずに行うこと。それといきつけの近所の整形外科のリハビリを受けることにする。さぁて・・・


退院日の朝焼け

かつて囲町(かこいちょう)と言われた土地の上に建つこの総合病院に3週間近く入院したことになる。江戸時代、五代将軍・徳川綱吉が「生類憐みの令」を発令して、1695年(元禄8)に現在の中野駅周辺に五つの「犬小屋」(「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」などとも呼ばれる)が設けられた。いつしか、このあたりは「囲町」と呼ばれるようになる。明治になると、ここに鉄道が敷かれ、陸軍関係の施設が建てられる。1938年(昭和13)には陸軍中野学校が開校し、敗戦後はその土地に警察大学校ができ、この大学校が移転した後には、それまで飯田橋駅近くの富士見町にあった東京警察病院が2008年(平成20)に移転してきた。そんな歴史の詰まったこの病院に、私は入院していたのである。

参考サイト
https://www.heart-to-art.net/BLOG/kan-den-chi/nakano/...

参考文献
『秘録 陸軍中野学校』(畠山清行著、保坂正康編、新潮文庫、2003年)元本は番町書房(1971年)版。
『陸軍中野学校――「秘密工作員」養成機関の』実像』(山本武利著、筑摩書房、2017年)
『陸軍中野学校全史』(斎藤充功著、論創社、2021年)

*陸軍中野学校の歴史は1938年(昭和13)から1945年8月の敗戦までの、わずか7年間だ。中野の囲町に移転が決まったのは1938年8月、「陸軍中野学校」という名称に変更したのは1940年8月だ。「中野出(なかので)」と呼ばれ、諜報員(秘密工作員)となった卒業生は2300人余といわれる。
⁑陸軍少尉・小野田寛郎(おのだ・ひろお 1922~2014)。ルバング島のジャングルで発見されたこの「残置謀者」は、1974年3月、フィリピン軍に投降し、29年ぶりに日本に帰国した。小野田は陸軍中野学校二俣分校の出身である。