(31)『平島大事典』を編むカゴ屋さん
[2022/4/2]

『平島(たいらじま)大事典』(「あ」行見本 稲垣尚友)が送られてきた。A4判で80頁の並製。千葉の鴨川市に住む稲垣尚友(いながき・なおとも)さんからだ。


表紙

稲垣さんは籠づくりなどの竹細工を生業としていて、竹細工職人、竹大工とも名乗っている。ひとむかし前の職種名だと、カゴ屋だという。またトカラ塾の塾頭でもある。
また稲垣さんは民俗記録者として30冊をこえる著作を出している顔をもつが、著書の半分は孔版(ガリ版)印刷本である。『臥蛇島(かじゃじま)金銭入出帳』『臥蛇島部落規定』『トカラの地名と民俗(上・下)』などはガリ版本だ。さらに手書きの個人新聞『痴報 籠屋新聞』(発行=籠屋新聞社)のシャシュ(社主)でもある。この『痴報 籠屋新聞』(A5判)は現在まで45号が発行されていて、44号(2021年2月10日、20頁)、45号(2021年5月25日、20頁)は、昨年に送っていただいている。

この『痴報 籠屋新聞』の既刊分の一部はトカラ塾のサイトで公開されている。
今回送られてきた「あ」行の見本、これは『平島大事典』という書籍の、いわば「抜き刷り」であろうか。最終ページにはこうある。「このア行が1万余字あり、カ行が13万字になる、全体で70万字弱になる」と記されている。70万字弱!今あるこの抜き刷りから換算すると、なんと5600頁の大著!!となる。しかし、その文末は残念にも「全項目を取り入れた本体の出版予定は、現段階では未定である」と結ばれていた。
実は2年前のコラム『俎板橋だより』(76)でも、当時いただいた『痴報 籠屋新聞』(43号、2020年3月31日)でこの大事典のことを紹介している。同号には、「稲垣さんが、トカラ列島のことばや暮らしの解説を集大成した『平島大事典』の校正作業を進め、年内の完成をめざす」というくだりがあった。同じ頃、稲垣さんは『朝日新聞』の「ひと」欄(2020年6月10日朝刊)にも、「南の島の暮らしを記録する」という見出しで登場し、そこでも「島のことばや暮らしの解説を集大成した『平島大事典』の年内完成をめざし校正作業を進めている」と宣言している。しかし、それから2年が過ぎ、コロナ禍もあった。それでなくても大著の編集・校正作業だ。まだまだ今も終わらず、発行は難航しているようだ。この抜き刷りは、その中間報告なのだろうか。

この平島(たいらじま)は鹿児島県鹿児島郡十島村(としまむら)にある島である。その位置を知るには、この『平島大事典』のp4にある地図が役に立つ。

  

平島は種子島や屋久島の南にあり、吐噶喇(トカラ)列島と呼ばれる大小12の島の一つである。平島の周囲はおよそ7キロで、人口は64人(2018年)だ。『平島大事典』の項目は五十音順で、記述の事象の多くは稲垣さんがこの平島に在住した、1967年から77年のもののようだ。あ行は、【あおきた】から始まる。旧暦8月に吹く風名。最後の項目は【およぎ】。これは漁法のひとつだ。
この十島村役場はどこにあるかご存知だろうか?十島村のどこの島にもなく、1956年から県庁所在地の鹿児島市の港の近くに置かれている。

私が稲垣尚友さんを知ったのはいつだろう。山尾三省さんの関係からだろうか。だが、山尾三省さんの追想特集である屋久島の季刊誌『生命の島』(2001年10月発行)には、稲垣さんは寄稿していない(『新宿書房往来記』p 149~)。2010年10月11日に東京で開かれた「山尾三省生誕70年祭」の会場だったのかもしれない。あるいは見世物、見世物学会の関係だろうか。稲垣さんもお祭りの縁日で、筵をひろげカゴを作り、売ってきた。
稲垣さんのたくさんの著作があることは前述したが、ここに『密林のなかの書斎―琉球弧北端の島の日常』(梟社、1996)という本がある。その中で諏訪之瀬島のナーガ・ラーダ夫妻や屋久島の山尾三省と親しくしていることを書いている。諏訪之瀬のヒッピーの世界にいたこともある。また民俗学者の宮本常一(1901~81)とも親しく、雑誌『あるくみるきく』でも常連の筆者だった。この『あるくみるきく』は1967年から88年まで宮本が主宰して日本観光文化研究所が発行したグラフィックな雑誌だ。
稲垣尚友さんはご自分のある本にこう書いている。「おじいさん、50年前の島の暮らしを教えてください」という民俗採集者が島に来た。それを聞いて、それなら、わたしは不確かな50年前よりも、確かな〈いま〉を記録して、50年後にやってくる人の資料を準備しようと決めた。」これが記録者、稲垣さんの出発点だ。しかし、自分のプロフィールを書くのを億劫がる人だという。稲垣さんのどの本を見ても、ちゃんとした略歴が書かれていない。今回、いろいろ読んでみて、22歳のころ、大学(国際基督教大学)在学中に書と教室を捨て放浪の旅の出たことを知った。1964年にはトカラ列島の臥蛇島に移り住み、70年に隣の平島へ。さらに、77年に平島を離れ、熊本県人吉市で竹細工の修行に入る。そして、一人前の竹細工職人になって17年後に再び平島を訪れ、島の記録を再開する。ある本での著者略歴。「……大学中退。尾瀬沼へ通じる三平峠で清涼飲料水の露天商を始める。その後、震災直後の新潟に移り、家々を訪ねまわってあとかたづけの手伝いをする。……」

1942年生まれ、いまも元気なこのカゴ屋さんの波瀾万丈の人生を、だれか、若い民俗学者やルポライターがまとめてくれないかだろうか。