(13)70年代から始まる新宿書房と中垣信夫さんの仕事
[2021/11/20]

「港の人」さんから「本文を印刷所に入稿しました。」と連絡があった。同時にカバー、本表紙、本扉のラフも見せてもらった。いよいよ12月はじめには『新宿書房往来記』(村山恒夫著、港の人)が出るのだ。ところで本書の巻末には「新宿書房刊行書籍一覧 1970-2020」が収録されている(p 315~341)。この書籍一覧は、版元の上野勇治さんの、たっての希望で作成したものだ。
これには書名(副題は略)、編著訳者、体裁、頁数、装丁者、本体価格が記載されている。新宿書房が発行元ではない(発売元のみの)書籍は省略した。しっかりした図書目録も断続的にしか刊行してこなかったので、記録の不備が多く、この作業はなかなかたいへんだった。国立国会図書館サーチでは、頁数は総頁数ではなく、奥付までの本文頁数の記載が多い。もちろん、このデータには詳しい造本の情報や装丁者の記載はない。印刷所や製本所への発注書など古文書を探りながら、結局1点1点の現物を確認するほかなかった。
さる7月に鷺宮に事務所を移し、その一遇に刊行書籍を五十音順に並べた小さな「保存庫」を作った。その保存庫の管理をしている編集部の加納さんが調査・作成して、この刊行書籍一覧を完成してくれたのだ。一覧の冒頭には、創業年の1970年から79年までの新宿書房が刊行した16点の書籍が記載されている。このうちの9点の装丁は中垣信夫さんの手によるものだ。市川房枝さんの本はすべて中垣さんの装丁だ。
中垣信夫(なかがき・のぶお)(1938~)さんは、杉浦康平(1932~)さんの一番弟子である。83歳、89歳のお二人は、今もバリバリの現役である。中垣さんは1964年から73年まで杉浦康平事務所に勤務する。この時期2度にわたり、ドイツ(当時は西ドイツ)のウルム造形大学に招かれた杉浦さんご夫妻に同行し、ウルムの町に長期滞在している。1973年に独立して、中垣デザイン事務所を設立した。
私が中垣さんに最初に出会ったのは1972年の頃だろうか、渋谷の明治通り、並木橋交差点近くにあった杉浦事務所だった。ちょうど立ち上げたばかりの平凡社『百科年鑑』の編集開始時期だった。その『百科年鑑1973』は1973年4月10日に創刊されている。中垣さんは独立して、住まいに近い地下鉄丸ノ内線の中野坂上駅から歩いて数分の宝仙寺の近くだったので、顔を出すようになった。整理された室内、クラシックが低く流れ照明を落とした少し暗い部屋の中で、ひとり静かに仕事をされていた。たまにアルバイトの学生がいたこともあった。その中のひとりの長澤くんは、いま武蔵野美術大学の学長をしている長澤忠徳さんだ。
新宿書房から書籍の装丁の相談を受けたとき、すぐの中垣さんを紹介した。親会社の桜映画社の会社目録や映画のパンフのデザインなどもやっていただいた。
新宿書房の最初の中垣本は1974年9月に刊行した『市川房枝自伝 戦前編』である。

  
函:表                  函:裏


本表紙:背:布クロス

四六判上製函入り。624頁の大著だ。本文は理想社(以下、名称は当時のママ)の活版印刷、製本は松岳社青木製本所。本表紙は布クロスで背はスミの箔押しで、グラシン紙(し)巻き。色ボールの函は天地ノリどめがまだ始まっていなかったのだろうか、針金どめ函だ。いずれも青木製本所の手配だろう。用紙は田村用紙店から。中垣さんのデザインは「清潔で美しい形」。活版の本文組の設計も厳しい。ノンブル(ページ番号)や柱(章タイトルや節タイトル)は、それぞれ右・左ページの版面(はんずら・はんめん)の小口(こぐち)の下(地)に置くが普通だが、中垣さんは違う。ノンブルは本文組の天にあわせ、その下に章タイトルや節タイトルを置く。なおかつ、そのノンブルは横倒しなのだ。まず、ページ開くと、本文、小見出し、ノンブルが天ぞろえにになっている。ノンブルの横倒しに理想社の文選(ぶんせん)の現場が驚いたのだろう、営業の人が飛んできた思い出がある。以下の文は中垣さんが自ら語った文だ。
http://japancreators.jp/design/g03_nakagaki.shtml
『市川房枝自伝 戦前編』には市川さんが戦時中、東京大空襲を避け八王子市外に疎開し、大切に保存した資料、書類、手紙類、これらを丹念に掘り起こし文字化した貴重な資料が多数収録されている。私も、平凡社から帰宅した晩に、ゲラ読みをしたこともあった。「保存庫」にある『市川房枝自伝 戦前編』を調べてみると、1990年3月の第7刷、1994年10月の第8刷があった。どちらも上製・カバー・帯の本になっている。第8刷の巻末にある略年譜には、1981年に市川房枝さんが亡くなったため未完となった「戦後編」の代わりに出版された、『覚書・戦後の市川房枝』(児玉勝子著、1985年、装丁=中垣信夫)の略年譜が、戦後部分として補充・再録されている。8刷には印刷スタッフに理想社のほか、清水印刷紙工、フクインが加わっている。それぞれ、本表紙、カバー・帯の印刷を担当してくれたようだ。

中垣さんはその後、中野坂上から新宿御苑近く、そして今の新宿中央公園近くと事務所を移し、早瀬芳文さんや有山達也さんら数多くのお弟子さんを育ててきた。デザイン事務所の仕事のかたわら、中垣さんがしてきた優れた仕事、それは2008年4月からデザイン学校を運営し、校長(代表)をつとめてきたことだ。それが「ミームデザイン学校」だ。社会人になった若手デザイナーが週末に、第一線のデザイナーやゲストから学ぶ「デザインの寺子屋」だ。印刷工場や製本所へのツアーもある。小さいが、素晴らしい民間学校だ。

長いお付き合いとなった中垣信夫さん。あるとき、実は忘れられない言葉をいただいたことがある。「村山さん、あなたは2回目の人だね」。わたしの性格をみごとに言いあてている言葉だ。つまり、私は人見知りでほんとうに気の弱い人間なのだ。初対面の人の前や会合の初会議ではほとんど発言しないで、小さくなっている。それが会を重ねるほどに、しゃべり出し。冗談も言い、いつのまにか小さな場のテングになっている。1回で終わる著者訪問や書店営業は、とても務まらないのだ。
私はそのころ、20代半ば。入社2年目。学生時代にはろくなバイトの経験もない。頭でっかちで、世間知らずで、かつ「2回目の人」。中垣さんは、そんな私に規矩ある編集者人生を、なんとかデザインしてくれたのだ。