(11)武蔵野の朝鮮人
[2021/11/6]

出版社「クレイン」(文弘樹代表)の新刊は『朝鮮戦争と日本人 武蔵野と朝鮮人』(五郎丸聖子著)だ。さっそく、読んでみた。第Ⅱ部のタイトルが「地域と記憶」。いいタイトルだ。そして第四章「武蔵野から朝鮮半島を考える」、第五章「武蔵野の朝鮮人」が続く。この五章の内容にまず惹かれた。中島飛行機武蔵製作所とそこに働く朝鮮人労働者とその家族。
いまから10年以上前に保谷市(現西東京市)に15年間ほど住んだことがある。この時期、本の編集の仕事はもちろんしたが(笑)、現実はほとんど犬との生活が優先で毎日が回っていた。ラブラドールの「ザック」と「パル」という犬との暮らしだ。かつてコラム「俎板橋だより」にも何回か書いたことがある。
 (62)大木茂写真集『汽罐車 よみがえる鉄路の記憶1963-72』のこと
 (67)盲導犬になれなかったパル
 (127) 26年前の古い原稿が出て来た
ザックは2006年6月に、パルは昨年2020年の4月に亡くなっている。
この間、新宿書房の事務所の所在地は、千代田区九段南、新宿区三栄町、千代田区九段北と変わるが、保谷の自宅からは、西武バスに乗り西武新宿線を越え、三鷹駅に出る。そこから総武線(東西線に乗り入れ)を使ってそれぞれの最寄りの駅(市ヶ谷、四ツ谷、九段下)まで通っていた。西武バスは、青梅街道の東伏見稲荷を越え、千川通りを過ぎると、いつも都立武蔵野中央公園の横を通る。ここにはかつて中島飛行機の軍需工場があったということはうすうす知っていた。今は広大な芝生になったこの公園では、凧揚げ大会や紙飛行機の大会がよく開かれていた。
五郎丸聖子さんのこの本から、ここにあったという中島飛行機の工場のことについて、さらにいろいろ学んだ。

1937年(昭和12) 中島飛行機東京工場が東京製作所となる。豊多摩郡井荻町(現杉並区桃井)。当地での開業は1925年(大正14)である。
1938年(昭和13)中島飛行機武蔵野製作所が北多摩郡武蔵野町西窪(現武蔵野市緑町)にできる。陸軍用工場(東側)。
1941年(昭和16)中島飛行多摩製作所が北多摩郡武蔵野町西窪(現武蔵野市緑町)に。海軍用工場(西側)。
1943年(昭和18)両工場は合併:中島飛行機武蔵製作所になり、陸軍用工場は「東工場」、海軍用工場は「西工場」と呼ばれる。従業員は2800人で、国内最大級の規模となった。
武蔵製作所開設当初の武蔵野町の人口は3万人だったのが、その後2年間で5万人に膨らむ。この武蔵製作所の工場建設工事に250人、工場の職工に200人の朝鮮人が働いていたという。
五郎丸さんの本には、残念なことに武蔵製作所を中心にした中島飛行機および関係する軍需産業の集積地を示す地図が掲載されていない。というのは、このあたりには中島飛行機武蔵製作所だけでなく、同社の三鷹研究所(跡地の今は富士重工とICUと野川公園になっている)をはじめ、三多摩各町村に軍需産業の工場が散在(いや集中)していたのだ。近くの図書館から、『戦時下の武蔵野 Ⅰ――中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』(牛田守彦著、ぶんしん出版、2011年)などを借りてくる。米軍B29による中島飛行機武蔵製作所への空襲は1944年11月24日から始まり、1945年8月8日まで9回もあった。これは日本で最も多く米軍の攻撃を受けた工場だそうだ。まさに狙い撃ちをされたのだ。

武蔵野市、三鷹市、西東京市、東久留米市などの周辺自治体は、さまざまな形で戦争体験の記録を残す努力をしてきた。この中でも西東京市の「西東京市戦災パネル」は本当によくまとめられている。
[西東京市戦災パネル]
https://www.city.nishitokyo.lg.jp/smph/enjoy/heiwa/sensai_paneru/...

[その他の資料]
武蔵野市
http://www.city.musashino.lg.jp/kurashi_guide/shiminkatsudo/...
https://musashino-kanko.com/area/heiwa-sansaku-map/
http://www.city.musashino.lg.jp/_res/projects/default_project/...
東久留米市
https://www.city.higashikurume.lg.jp/_res/projects/default_project/...
小平市
https://library.kodaira.ed.jp/kids/tkk/no10.html#detail07
清瀬市
https://www.city.kiyose.lg.jp/_res/projects/default_project/...
その他
https://tamahaku.jp/museumtama/pdf/37.pdf

これらの資料を見ていくと、中島飛行機武蔵製作所を中心にさまざまな軍需工場がこのあたりに点在していたという歴史地図を描くことができる。
保谷のかつてのわが家の北には「ひばりが丘団地」があった。ここは、1959年に中島飛行機田無試運転工場や中島航空金属田無製造所などの跡地に建てられた団地だ。そう映画『釣りバカ日誌』のあのハマちゃんが住んでいたメゾネットのテラスハウスやスターハウスのあった団地だ。団地ができると、西武池袋線の「田無町」という駅名も、「ひばりヶ丘駅」に変わる。あわてて、西武線文化・団地文化の聖典、原武史の『レッドアローとスターハウス』(新潮社、2012年)をひっぱり出す。
私は保谷市(現西東京市)と三鷹駅を結ぶ南北の線を毎日バスで通勤していたわけだが、これはかつての中島飛行機の関連工場の跡地を巡っていたことになる。途中にあった東伏見稲荷の境内には空襲を受けた中島飛行機武蔵製作所の「殉職者慰霊碑」があることもわかった。

東松山にある原爆の図丸木美術館を訪れた際に、学芸員の岡村幸宣さんに、東松山の名物「やきとり」文化(豚のカシラ肉にみそだれをつける)は、戦時中に近くの吉見百穴の地下に作られた軍需工場の突貫工事に、日本中から集められた3000人を越す朝鮮人労働者が暮らした「置き土産(食文化)」だと教えられたことがある。今回、もう一度よく調べてみると、その吉見百穴の地下工場は、なんと1944年に米軍の爆撃を受けた中島飛行機武蔵製作所の生産をリカバーするために、中島飛行機大宮製作所によって急遽建設されたことがわかった。

五郎丸さんの本から始まった、なんという長い歴史の浮遊であったろうか。中島飛行機武蔵製作所の正門近くに住んでいた朝鮮人労働者の中には、空襲の後にあの吉見百穴の地下工場に向かった(集められた)人々がいるのだろうか。また、東松山の「やきとり文化」のような置き土産が、この武蔵野にもあるのだろうか。