(10)野中の一本杉・市川房枝というひと 承前
[2021/10/30]

コラム(6)で新宿書房が出版した市川房枝さん関連の本を紹介した。それは以下の6冊であった。
・『市川房枝自伝 戦前編』(1974年8月)
・『だいこんの花』(市川房枝随想集、1979年4月)
・『ストップ・ザ・汚職議員!――市民運動の記録』(市川房枝編、1980年3月)
・『野中の一本杉』(市川房枝随想集Ⅱ、1981年10月)
・『市川房枝というひと――100人の回想』(「市川房枝というひと」刊行会編、1982年9月)
・『覚書・戦後の市川房枝』(児玉勝子著、1985年6月)

これ以外に、市川房枝さんの企画によって出版された本が2冊ある。
・『山内みな自伝――十二歳の紡績女工からの生涯』(1975年12月)山内みな(1900~1990)は、12歳の時、上京して当時3000人もいたという「東京モスリン吾妻工場」の女工となる。1919年(大正8)に友愛会(労働組合)日本橋支部発会式に招かれて演説。これを報じた新聞を見た、市川房枝(1893~1981)と平塚らいてう(1886~1971)が工場に面会に行く。当時、みな18歳、房枝26歳、らいてう33歳の時だった。市川さんは本書に序文(「山内みなさんについて」)を寄せている。山内みなは、戦後は東京・荻窪駅南口の商店街で小さな洋裁店を営みながら、杉並区から始まった原水爆禁止運動にも参加した。
・『窓の女 竹中繁のこと――東京朝日新聞 最初の婦人記者』(香川敦子著、1999年2月)竹中繁(たけなか・しげ1875~1968)は1912年(明治45)に当時の社会部長だった渋川玄耳(げんじ)のつてで、東京朝日新聞社に連絡員として入り、翌年社員(婦人記者)となった(37歳)。繁は社会部の端に机を与えられ、他の男性社員と顔をあわせることのないように、窓に向かって座らされた。そこで、渋川が「窓の女――マドンナ」というあだ名をつけたという。大正、昭和と定年退職(1930年)するまで朝日新聞社の記者として働いた。1968年11月9日、婦選会館で繁の追悼会が行われ、市川が代表として挨拶をした。

GHQから公職追放を受けた市川房枝
今回は、市川房枝さんの公職追放を取り上げたい。
市川(以下敬称略)は1944年(昭和19)6月、トラック2台分にもなる婦人問題研究所(四谷)の図書・資料を持って、八王子郊外の川口村(当時は東京都南多摩郡、現八王子市)に疎開した。この婦人問題研究所は翌年4月13日の東京大空襲で焼失する。
市川は1945年8月15日の敗戦の詔勅を、当日、部屋を貸してもらう交渉をしていた四谷信濃町の作家長田幹彦宅で聞く。「涙が頬を伝って流れた。戦いに敗れたくやしさであった。しかし平和がよみがえった安堵の気持のあと、さて、私たちは何をすべきかを考えた。」(『自伝』615頁)
実際、市川の動きは早かった。その日のうちに、予想される占領下での女性たちの受難に対処するため、「戦後対策婦人委員会」の規約案を作成する。そして8月25日には「戦後対策婦人委員会」結成会が開かれ、これに出席している。会員は総勢72名、山高しげり、奥むめお、久布白落実、藤田たきなどが名を連ねた。
さらに終戦から5日後には、市川は『朝日新聞』に論説を書いたのを皮切りに、その3ヶ月間に大手新聞3紙に6回の論説を書き、女性参画の新生日本の政治を主張した。全国講演も毎月10~20回もこなし、まさに時代の寵児となった。11月3日には「新日本婦人同盟」を創立、会長になっている。


「終戦直後、すぐに東京の街を歩いて戦後の婦人対策に奔走する市川房枝(1945年9月)」
『野中の一本杉』より)

市川房枝(当時54歳)は1947年4月、初の参議院議員選挙全国区に立候補するため、2月25日に必要な資格審査を申請したが、3月24日、戦時中に「大日本言論報国会」の理事を務めたとの理由により、公職追放の指定を受ける。1950年10月13日の公職追放指定解除により、ようやく「3年7ヶ月の格子なき牢獄から解放された」(市川「私の追放時代」『野中の一本杉』)。
市川は追放解除後、新日本婦人同盟を「日本婦人有権者同盟」と改称し、会長に復帰。1953年(昭和28)4月」の参議院議員選東京地方区に立候補、〈理想選挙〉で2位当選を果たす。

「公職追放」とはなんであったのだろうか。GHQは日本民主化政策の一環として、好ましくない人物の公共性のある職務に特定の人物が従事することを禁止した。増田弘によれば、旧軍部を中心として、政界・官界・財界・言論界・教育界等の関係者約21万人が公職追放され、そして追放を恐れて事前に辞職した者、追放当事者の家族・親族を含め合わせれば、100万人以上がこの公職追放の影響を受けた。また同時に行われた「教職追放」でも7000人の教職員が職場から離された。まさに占領期の日本社会を覆った一大恐怖だった。国鉄の労働組合には「追放箱」という密告箱まで設置されたというから、日本社会全体が疑心暗鬼の状態になったのではないだろうか。
市川房枝は民主化の寵児からいきなり奈落の底につき落とされ、「戦争協力者」として「女性追放者第1号」に指名され、公職追放された。
誰(GHQおよび日本人スタッフ)が、どのような基準で公職追放者を決めたのだろうか。公職追放された女性は市川を含め、どのくらいいたのであろうか。まだまだ研究は十分ではない。
下の参考文献にあげた、『市川房枝の言説と活動――年表で検証する公職追放1937-1950』は、市川の公職追放を市川の著作を含め、膨大な資料から関連する事項を丁寧に年譜に落とした貴重な研究である。GHQの「市川房枝公職追放関係文書」も和訳して掲載している。


『市川房枝の言説と活動――年表で検証する公職追放1937-1950』の表紙)

今回、市川の『自伝』などを再読し、包み隠さず明らかにするその信念と行動、それらの記録を公正に保存した市川房枝とその仲間の仕事に、あらためて感銘を受けた。
回想集『市川房枝というひと』の中で、歴史学者の鹿野政直がこう言う。「私は、市川が婦人解放への初心をもちつづけたことを疑わないし、また自伝で戦時中の行動を率直にかつ精細に叙述していることも尊敬する」。

参考文献
1)『公職追放に関する覚書該当者名簿』(総理庁官房管理課、1959年。国立国会図書館デジタルコレクションで公開)明石書店から復刻資料(全2巻、1988年)も出版されている。


『公職追放に関する覚書該当者名簿』

2)『公職追放――三大政治パージの研究』(増田弘著、東京大学出版会、1996年)
3)『公職追放論』(増田弘著、岩波書店、1998年)
4)『市川房枝の言説と活動――年表で検証する公職追放1937-1950』(市川房枝研究会編著、市川房枝記念会出版部、2008年)*本書は3巻シリーズの1冊。他の2巻は、『市川房枝の言説と活動――年表でたどる婦人参政権運動1893-1936』『市川房枝の言説と活動――年表でたどる人権・平和・政治浄化1951-1981』である。
5)『市川房枝と「大東亜戦争」――フェミニストは戦争をどう生きたか』(進藤久美子著、法政大学出版局、2014年)市川房枝研究会のメンバーとして『市川房枝の言説と活動』の作成に参加した著者による労作である。
6)『エピソード――アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集』(大橋吉之輔著、尾崎俊介編、トランスビュー、2021年)本書は『S先生のこと』『ホールデンの肖像』の著者、尾崎さんから贈呈されたばかりの新刊である。
この中で尾崎さんが綴るエピソード「大橋二等兵」に注目した。英文学者の大橋吉之輔(1924~1993)は大学で敵性語である英語を学び、鬼畜米英文学を専攻した。そして行く先々で特高の刑事に後をつけられてきた。朝鮮半島で日本の敗戦を迎えた大橋二等兵は、すぐに単身米軍基地に乗り込み、そのまま朝鮮半島に駐留し、米軍の通訳として働いたという。大橋さんの行動は他の日本人、韓国人からは裏切りと映り、路傍の電信柱に貼られたビラには「大橋を殺せ」の文字が躍ったという。
ここからの私の妄想は飛躍する。GHQに群がった米国通の人、英語ができる人、英文学者たちが、公職追放を含め、GHQの占領政策にどのように関係したのだろうか。そこには公平な判断があったのだろうか。