(6)野中の一本杉・市川房枝というひと
[2021/10/2]

BSテレ東『武田鉄矢の昭和は輝いていた』「昭和を輝かせた女性」(9月24日)を見た。市川房枝(女性参政権の先駆者)、緒方貞子(日本人女性初の国連大使)、笹本恒子(女性初の報道写真家)の3人を取り上げた、およそ2時間の番組だった。
事前に制作スタッフから小社刊の『市川房枝自伝 戦前編』*の中から、1箇所を番組で引用したいとの相談があったが、放送2日前になって、さらにもう2箇所を引用したいという連絡があった。(*初版は1974年、現在の版は第4版で初版になかった「市川房枝略年譜」の戦後部分を加えている)
番組内容は丁寧な作りで、市川房枝さんの長い、長い人生を簡潔に描くことに成功している。

新宿書房と市川房枝さん
新宿書房は市川房枝さん(1893〜1981)の関連する本をいろいろと出している。なお、造本はすべて中垣信夫さんの手になる。

●『市川房枝自伝 戦前編』(1974年8月)市川さんは1971年6月、参議院選東京地方区より4度目の立候補をしたが落選した(78歳)。3年後1974年7月、青年たち(菅直人ら)に推され参議院選で全国区から立候補し、2位当選。国会議員にカムバックするまでの時間を使って、この自伝(戦前編)を執筆することができたという。いわば、落選のおかげで本書は生まれた(児玉勝子著『覚書・戦後の市川房枝』より)。
自伝の出版までにはこんな経緯があったようだ。
「この書の出版社である新宿書房の社長村山英治氏は主に教育映画を手がけている桜映画社の社長で、戦争前からの私の知人である。四、五年前、同氏から新たに出版も始めることにしたので、最初に私の自伝を出したいとの申し出があり承諾した。」(本書「あとがき」より)しかし原稿の完成までには相当に手間どり、しかも1945年(昭和20)の8月までの「戦前編」は400字詰め1000枚を超える分量となった。

●『だいこんの花』(市川房枝随想集、1979年4月)
これは自伝後編の『市川房枝自伝 戦後編』の執筆が進捗しないため、その完成までのつなぎとして、戦後、機関誌などに発表した市川の随想をまとめたもの。
「本書の表題になった「だいこんの花」は、私の婦選運動時代(昭和5、6年前後)につけられたニックネームの一つです。」(本書「あとがき」より)。だいこんの花の色は、紫でなく、白いほうだという。白いだいこんの花は、百姓の娘として生まれ、化粧もせず、泥くさい、しかし清浄をのぞむ自分にさわしいともいう。ちなみに市川さんには、「野中の一本杉」「平熱」「もみくちゃの十円札」というニックネームもあったと、ここで書いている。

●『ストップ・ザ・汚職議員!――市民運動の記録』(市川房枝編、1980年3月)政治浄化、金のかからない選挙を目指し、汚職に関係した候補者に投票しない空前の市民運動のドキュメント。

● 『野中の一本杉』(市川房枝随想集Ⅱ、1981年10月)市川さんは、1980年6月の参議院選ではふたたび全国区から立候補、今度は第1位で当選。しかし、翌年1981年2月11日、心筋梗塞の発作で死去、87歳9ヶ月の人生だった。本書では『だいこんの花』に未収録の戦前、戦中の随想も多い。
「東京に来てからの私は、「野中の一本杉」というあだ名を付けられましたが、(中略)私にはそばにいていろいろ提案してくれたり、手伝ってくれる人もいませんでしたし、相談に行けるところもほとんどなく、自分の思うようにやって来ました。」(本書より)

●『市川房枝というひと――100人の回想』(「市川房枝というひと」刊行会編、1982年9月)丸岡秀子、鹿野政直、犬丸義一、青島幸男、佐多稲子、瀬戸内晴美(寂聴)、米倉斉加年、山内みな、高橋喜久江、長谷川俊介、野間久子ら100人が故市川房枝について語る回想集。丸岡、鹿野、犬丸の回想文については次回のコラムでふれる。

● 『覚書・戦後の市川房枝』(児玉勝子著、1985年6月)市川さんは1981年に亡くなったので、途中まで執筆していた『市川房枝自伝 戦後編』はついに未刊の書となってしまった。本書は長く市川さんの下で調査・出版・図書関係の仕事に携わってきた児玉勝子さん(1906〜96)が引き継いで完成させた「戦後の市川房枝」伝である。

新宿書房から市川房枝さんの本を次々と出版できたのは、桜映画社(新宿書房)の経営者・村山英治と市川さんとの長い付き合いがあったからだ。
村山は、1933年(昭和8)にいわゆる「長野県教員赤化事件」(二・四事件)で逮捕され、翌年有罪判決を受け、教員をやめて上京。1937年、大村英之助の芸術映画社(GES)に入社、映画の企画・脚本の仕事につく。
1938年(昭和13)*、村山は母性保護映画『母を護れ』(仮題)の企画のことで当時、四谷見附にあった婦選獲得同盟の事務所を訪ね、市川房枝さんと金子(山高)しげりさん(1899〜1977)のふたりに相談をする。何度かシナリオを検討したが、映画は実現しなかった。しかし、市川、山高さんふたりとの付き合いは、戦後になってから、またそれぞれ始まった。(*村山は他の本では、1941〜42年とも言うが、これは定かではない)
村山は戦後、参議院議員になっていた市川さんを訪ねてアドバイスをもらい、地婦連(全国地域婦人団体連絡協議会:1952〜)の初代会長になっていた山高しげりさんに会う。山高さんに、母と子の桜映画社設立構想の相談をしたのだ。こうして、1955年6月、「母親プロ」桜映画社は設立された。

市川房枝の記録映画を撮っておきたいという話は前からあった。1980年5月18〜19日、都内のスタジオで撮影されたインタビューから始まったドキュメンタリー映画『八十七歳の青春――市川房枝生涯を語る』(桜映画社、1981年、完全版121分・短縮版59分) は、6月の参議院選挙も撮影し、最後の場面は、市川さんが1981年2月11日に亡くなり、13日の婦選会館でのお別れ式のシーンで終わる。
まさに『市川房枝自伝』の映画版となった。

(次回コラムに続く)