(4)紀伊半島豪雨から10年が過ぎた・・・
[2021/9/17]

2011年9月の台風12号。紀伊半島の3県(和歌山、奈良、三重)での被害が甚大だったため、今は「紀伊半島豪雨」「紀伊半島大水害」と呼ばれている。3県の死者と行方不明者は計88人にのぼった。
わが熊野の山の作家・宇江敏勝さんが、「紀伊半島豪雨10年 消えた集落を思う」と題するエッセイを『中日新聞』の9月3日夕刊に寄稿している。
和歌山県田辺市本宮町三越(みこし)にあった奥番(おくばん)という小集落はこの豪雨で消滅した。奥番はかつて25世帯60人がいた集落だったが、過疎化が進み、この時までに人口は8世帯10人になっていた。奥番は熊野本宮からそう遠くないところにあった。2005年にここ本宮町(ほんぐうちょう)は、龍神村、中辺路町、大塔村とともに田辺市に吸収合併されていた。
豪雨から10年たった8月のある日、宇江さんはこの奥番のあった里を訪ねる。奥番では崩落地の土木工事が何年にもわたって続けられ、谷川の砂防堰堤が新しく建設されていた。しかし、集落や田畑の跡は何もない。実は大水害があったその年の11月5日、この奥番では、住民は復興をあきらめ、全員が集落を捨てることを決め、自治会の「解散式」が行われた。下流の木材加工工場で行われたこの解散式には、かつてこの奥番に住んでいた人々も含め関係者百数十人が集まり、宇江さんも出席した。
エッセイと一緒に掲載されているカラー写真が胸を打つ(撮影は同行の中日新聞のM記者)。宇江さんの目の前には集落のあった場所の土砂崩れ跡がいまも生々しく広がっている。
「谷川には澄みきった水が流れ、渓谷に棲むカワガラスが潜って遊んでいる。奥番はまもなく樹木が生い茂って果無の山脈の一部になるのであろう。」
山の作家の目はさらに遥か遠くをながめている。

この10年、宇江敏勝さんの「民俗伝記小説集」の編集打ち合わせにためにほぼ毎年、中辺路の野中にある宇江さん宅を訪ねてきた。最初の本『山人伝』は2011年6月だ。この年は大水害の直後の10月下旬に宇江さん宅に。近露の手前でも山が崩れ、仮橋、迂回路がつくられていた。2012年の『幽鬼伝』(8月)の時は、どうも熊野には行かなかったようだ。
2013年6月の熊野訪問。第3弾『鹿笛』(8月)の校正・編集の打ち合わせだ。8年経ったいまも鮮やかに思い出すことができる。
この時は、編集部の加納千砂子さんも初めて同行。
いつも通り宇江宅に泊めていただき、わずか2日間の滞在だったが、一足先に来ていた室野井洋子さんもまじえ、熊野大社、川湯温泉、瀞峡下り、夜は宇江さんご自慢の囲炉裏での夕食と行事満載、仕事はいつしたのかしら。2日目の朝、武子夫人と加納さんがエプロン姿で台所に立ち、たくさんのおにぎりを握っていたことを思い出す。
ずっと宇江さんの車で案内してもらったのだが、豪雨後2年たっても、山崩れや、熊野川の氾濫の跡がそこかしこに目についた。

写真展「流された村 奥番」が本宮町にある「世界遺産熊野本宮館」(展示室)で開催されていたことを知った(8月21日〜9月12日)。和歌山県警の元警察官で写真家として活動する大上敬史(おおうえ・たかし)さんの写真展。大上さんは2011年の大水害時には田辺署の地域課に所属し、救助活動に当たったという。その後は被災後の奥番に住んでいた人々の表情を撮影し続けてきた。