(1)第二東映、ニュー東映があった頃【村山新治・深作欣二・千葉真一】
[2021/8/28]

事務所が中野区白鷺に移転してから、まもなく2ヶ月となる。コラム名も「しらさぎだより」と改めた。
引き続きお読みいただければ嬉しい。

俳優の千葉真一(1939〜2021)が8月19日に死去した。享年82。千葉から来た青年(本名:前田禎穂)*が東映入社(東映ニューフェース第6期生)したのは1959年(昭和34)のことだ。そのころの大泉(東映・東京撮影所)はどんな様子だったのだろう。
時代は、民衆の娯楽の中心が映画館全盛からテレビへと大きく舵を切り始めていた。1958年(昭和33)には、映画館入場者数が11億2745万人とピークに達したが、わずか3年後の1961年には映画館入場者数はこの半分にまで落ちる。この前年の1960年にはNHKと民放4局がカラーテレビの本放送を開始している。1972年には映画館入場者数が2億人を割るのだから、映画産業はさらに斜陽の道をたどっていく。
東映は1957年に日本教育テレビ(NETテレビ、現在のテレビ朝日)の設立に参加し、テレビ映画の製作も目指した。1959年2月、NETは本放送を開始、東映はテレビ映画のプロダクション(「東映テレビ映画」)に力を入れるが、映画本体の生産力を増強するために、同年5月に「第二東映株式会社」と商号を変更した。テレビ映画の製作からシフトして、東映本体の東京撮影所(大泉)・京都撮影所(太秦)の製作本数の増強をはかる「第二番線」として位置づけたのである。そして1961年2月、第二東映を「ニュー東映」と改称する。しかし、同年12月に早くもニュー東映は製作・配給を中止し、親会社・東映に吸収合併されて消滅した。
この約2年の間に第二東映は東京・京都でそれぞれ26本、ニュー東映は東京43本、京都11本、総合計106本の作品を産んだ。まさに粗製乱造のプログラムピクチャーの製作だったが、若手にとっては、のちにスターとなる俳優や名匠となる監督が誕生する貴重な機会が与えられたことも事実だ。またこの時、新東宝などから多くの監督・スタッフも移ってきている。
1953年に東映に入社した深作欣二(1930〜2003)は16監督50作品に付いて助監督を経験したあと、ついに監督デビューした作品が、ニュー東映東京作品の『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』(1961年6月9日封切/モノクロ/スコープサイズ/62分:併映は関川秀雄監督『我が生涯は火の如く』)だ。主演は千葉真一。2本目は2本持ちで撮影した『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』(6月23日封切/モノクロ/スコープサイズ/60分:併映は石井輝男監督『花と嵐とギャング』)、もちろんこれも千葉真一主演。後に大ヒットした『網走番外地』(65:主演=高倉健)を撮った石井輝男監督(1924〜2005)が、1961年に新東宝から移り、東映入社第1作目が、この『花と嵐とギャング』だ。
深作監督作品の3作目『ファンキーハットの快男児』(8月5日封切)、4作目『ファンキーハットの快男児 二千万円の腕』(9月12日封切)、いずれも千葉真一主演のニュー東映作品だ。ニュー東映最後の製作となったのは『白昼の無頼漢』(11月1日封切/主演=丹波哲郎)で、これは深作監督の5作目の作品だ。


映画のトップロゴ。上から、
東映、第二東映、ニュー東映(モノクロ)、ニュー東映(カラー)

わたしの叔父、村山新治(1923〜2021)もニュー東映と無縁ではなかった。1957年8月に『警視庁物語 上野発五時三五分』で監督デビューしたが、60年あたりから、作品に恵まれなかった。その村山が、ニュー東映のもとで撮ったのが『故郷(ふるさと)は緑なりき』(9月6日封切)と『警視庁物語 12人の刑事』(9月13日封切)だ。『故郷は緑なりき』は村山の代表作のひとつになっている。『村山新治、上野発五時三五分』(新宿書房)を読んで下さった方なら、村山新治と深作欣二のふたりの関係はよくご存知だろう。村山チーフ助監督の下で、深作は4本のサード助監督を務め、さらに村山監督の下で、深作は3本のチーフ助監督を務めた。特に『七つの弾丸』(59:主演=三国連太郎)での深作チーフ助監督の働きぶりは傑作譚だ(前掲書p 286〜287)。

ニュー東映の嵐をかいくぐった、村山新治、深作欣二、千葉真一の3人が長く一緒に仕事をしたのが、劇場映画ではなくテレビ映画『キイハンター』(TBS /東映)だった。土曜9時から始まるこのドラマは1968年4月から始まり、なんと73年の4月まで続き全262話という長寿番組となった。キャストは丹波哲郎、野際陽子、千葉真一、谷隼人ら。深作は最初から最後まで構成・監修に携わり、自ら第1話、第2話など全部で5話の監督を務めた。一方、村山は全部で26話の監督をした。『キイハンター』での共演が縁で、1973年に千葉真一は野際陽子(1936〜2017)と結婚する。

*注:千葉真一の芸名に由来については、当時第二東映の東京製作所所長だった山崎真一郎が「千葉県出身ということで千葉、そして仕事を忠実に真心込めて」という意味で命名したという話、また千葉自身は「山崎所長から『千葉から来たから名字を千葉、名前はオレの名前をとって真一にしろ』と言われた」いう話は有名なエピソードだが、真偽のほどは定かでない。太泉映画撮影所長、東映東京撮影所長、京都撮影所長を歴任した、この山崎真一郎という人物についても、『村山新治、上野発五時三五分』を参照されたい。

参考文献
深作欣二+山根貞男著『映画監督 深作欣二』(ワイズ出版、2003)
村山新治著『村山新治、上野発五時三五分』(新宿書房、2018)
『日本映画ポスター集 第二東映、ニュー東映、東映篇――佐々木順一郎コレクション』(ワイズ出版、2001)
『東映ポスター集 ポスターでつづる東映映画史』(青心社、1980)