(18)新聞と私
[2014/4/11]

 私と同様、ひとり暮らしをしている老友が電話をかけてきた。よもやま話の末に、「新聞を止めた」といった。

 「世の中のことは、テレビを通じて、なんでも知らせてくれるから」と。「新聞 にはテレビ欄があるから、困るでしょ。」と反問する。新聞には、テレビ欄一週間分の予告版がサービスとして入っている。近所に娘さんが住んでいるので、それを切り取って、彼女の家のポストに入れてくれているらしい。

 わが家は古家で、玄関脇の小部屋を寝室に定めて、ベッドが置いてある。枕のすぐ近くに窓があり、そのむこうがポストである。

 朝刊は4時頃に配達される。バイクの音が近づいてきて、投げこまれる。大きな音だ。

 夏ならいいけれど、今ごろはまだ寒いだろうなあと想像する。

 気がつかないときは、ぐっすり眠っているわけで、そのほうがありがたい。

 私の住む市は、チラシと新聞で資源ゴミの収集日が違うので、その選別をしなければならない。

 チラシ広告といっても、ひとかかえもある。見落としてはいけない大切な広告は、近所のスーパー1店のみ。新築案内、パート案内、学習塾、自動車の売出し……。私には関係ない。近所のパチンコ屋の宣伝もある。

 翌日に持ち越そうと思わないので、その日のうちに選別をしようと思う。結構、いそがしい。

 老友の中には、社説を読むのが趣味という人もいるが、私はとばし読みだ。

 大文字の見出しを追う。

 テレビで報道されたことを、活字でたしかめることが多い。

 編集人のコラム記事は、ひき入れられて読む。短くても、香辛料のきいているところがいい。

 読者の投書による家庭のなやみごと相談のページは、時折、読む。こんななやみもあるのだなあと思いながら……。井戸端会議のつもりで、気楽に。

 私は、現在、読売新聞をとっている。どうしても、巨人びいきになるので、地元の阪神ファンとしては、面白くない。次回の更新時には、他紙に変更するつもりだ。

 料理欄にも目がいく。参考にする。

 書評ページも読む。私の愛読した作家は、亡くなった人が多くて、さびしい。

 新聞を熟読するわけではないが、新聞を止めようとは思わない。目が疲れても、老いの日々の、新聞は友だ。