(26)ファザ・コン
[2005/3/24]

 「あなたは<ファザ・コン>じゃない?」と友人からいわれたことがある。まだ若いときで、<マザ・コン>という言葉が流行り出したころのことだ。44歳で亡くなった父親をなつかしむ気持は続いていたが、それは子どもなら当り前のこと。生き方まで影響を受けていないという思いがあって、そのときは反発した。

 しかしその後、様々に屈折した親子関係を知るようになった。その点私の場合は至ってシンプルなのである。なにしろ、14歳まで、子どもの眼でしか、父を知らないのであるから。

 やさしくて、私を守ってくれた父、それだけなのである。

 後年、学生仲間としゃべっていて、お互いの父親が同い年で、同じ大阪の中学校を卒業していることがわかった。そのことを健在のお父さんに告げたらしい。翌日、「いろいろ聞いてきたけれど、君の夢をこわすといけないからいわんとくわ」といった。そんな中途半端ないい方をした彼を、いっぺんに嫌いになった。

 伯母たちが、「20貫(75キロ)以下に落さないと体によくない」と父に忠告していたのを覚えている。背は170数センチぐらいだっただろうか。明治の人としては大柄で、それだけでも子どもから見て、頼りになったのだと思う。

 近所の神社の祭に、父に連れて行ってもらったことがある。金魚すくいのあと、新しくお目見えしていたパチンコもしてみたかった。10数台はあっただろうか、台の前で迷っていると、「はしから順番に全部やってみたらいい」といってくれた。自分の父親はなんと裕福なのだろうと感動した。

 映像で父を思い出したことが3度ある。戦後の洋画、<野郎どもと女たち>に出てくるギャングの親分。悪い奴なのだが、ほんとは気弱なロマンチスト。

 客が来て談笑していたのに、父が急に座を立った。私は驚いて注目する。どうやら昔亡くなった人の思い出話をしていたらしいのだ。こぼれそうになった涙を見せるのが恥かしくて、トイレに逃げこんだ父。事情が分っている座の人たちは、からかいながら笑い続けていた。

 次はやはり映画、<オーケストラの少女>に出てくる名指揮者、ストコフスキー。それから一時期、新聞やテレビ画面を賑わしたアメリカの政府高官、キッシンジャー。

 この2人についてはよくわからなかった。ストコフスキーは、映画の最後の場面で、救世主のように現われるので、父像への願望から、そんなふうに感じたのかと思った。同じくキッシンジャーは、力ある者の表象として‥‥‥。

 しかしずっと後に2人の写真を改めて見ることがあって氷解したのである。2人ともやや受け口で、父もそうなのだった。そして鼻がでっかいところも、似ていないこともない。

 女学校の入学試験のとき、関心のなさそうな顔をしていたのに、仕事をぬけ出して合格発表を見に行ってくれたことが、あとで分った。そして電車通学が始まると、「衝突するかもしれないから、前と後の車輌には乗るな」と命令した。真中でも脱線する危険があるのにと思ったが、私は父の言葉に従った。

 お酒を飲むと大きなことをいうのが好きで、将来の夢を語った。お金持になっているそうで、毎日、母に、10円だか100円だか単位は忘れたが、お小遣いをあげるというのだった。

 しかし時には黙々として、何時間もひとりトランプを続けることがあった。そして<海辺の歌>を口ずさみ、高音になると声が出なくて、口笛にすりかえる。それがお定まりのコースなのだった。

 貿易の仕事をしていて、戦争が激しくなるまでは、外国にもよく出かけた。そういうことから服装に関心があるのか、私が着ている既成の子ども服を見て、ボタンの色が合わないから変えるようになどとアドバイスした。

 もちろん複製だが、西洋の名画がわが家に飾られていて、そんなことも、現在私が絵を描いていることにつながっているかもしれない。

 父の晩年は仕事が時勢にあわず、苦しんでいたと思う。一人娘をやせさせないことだけに情熱を燃やしているふうで、闇の食糧を求めてきては私に食べさせた。

 頑健な体であることを、本人も家族も信じていたのに、疎開先の一部屋で、十分な手当も受けられないまま死んでしまった。妻子の行く末に思いを残したに違いない。

 私は、阪神大地震でも、大きな3度の手術でも、命拾いをすることができた。こんなことは今まで誰にもしゃべったことはないのだが、命拾いの度に、父を感じている。

 そして毎朝、「あなたの娘に生まれてよかったわ。ありがとう。」といいながら、仏壇に手を合わせている。