(21)マザー・グースの唄
[2004/7/11]
 私はマザー・グースの唄が好きだ。

 イギリスの伝承童謡が、この名前の童謡集として出版されたのは18世紀らしい。

 今では800扁以上が収集されているというが、私が知っているのは僅かである。

 持っている本は、古い文庫本で、北原白秋訳<まざあ・ぐうす>と、平野敬一の紹介書<マザー・グースの唄>の2冊だけ。気がむいた時に頁を開いて楽しんでいる。

 白秋は序文で
 「・・・・・それはもうどんなに不思議で美しくて、おかしくて、ばかばかしくて、おもしろくて、なさけなくて、おこりたくて、わらいたくて、うたいたくなるか・・・・・・」と書いている。

 平野はそれに
 「無気味なをつけ加えたい」としている。

 全くその通りなのだ。たとえば
  あの丘のふもとに
  お婆さんがござった。
  もしも去(い)なんだら
  まだ住んでござろ。
          (白秋訳)

 この4行の唄に出会うと、私は笑ってしまう。異の唱えようがないではないか。

 またこんな唄もある。

 ソロモン・グランディは、月曜に生まれ、火曜に洗礼を受け、水曜に結婚、木曜に発病、金曜に重くなって土曜に死ぬ、そして日曜に埋葬される。

 白秋訳によるしめくくりの2行は
  ソロモン・グランディの御一代。
  そこでおしまい、ちゃァんちゃん。

 ルイス・キャロルの<不思議の国のアリス>も、私の好きな本のひとつなのだが、その続扁<鏡の国のアリス>に、ハンプティ・ダンプティが出てくる。卵形のでっかい頭に手足のついた彼が、石壁の上に腰かけて、アリスと問答する。その光景をさし絵で一度見ると、忘れることができない。

 このハンプティーは、アリスの作者の創作ではなく、マザー・グースの唄からきているのだ。

 ハンプティが壁の上から落ちたら、王さまの馬や部下を総動員しても、もとに返すことはできなかったという唄。

 卵はいったん割れたら、絶対にもとへは戻らない。つまりこのなぞなぞ唄の答は卵なのである。

 マザー・グースの唄は、大人の頭で接すると楽しめない。

 猫がバイオリンをひき、おっぱいの大きな牝牛が月をとび越え、小犬がそれを見て笑い、お皿がおさじを追っかけたという唄。

 牛が月の上を飛ぶはずがないとか、犬は吠えるのであって、笑ったりしないといいだしたらおしまいだ。

 毎年春には、私の所属する美術団体の展覧会が京都である。

 今年、私は読書する女の人の絵を、100号のキャンバスに描いて出品した。

 マザー・グースの唄を読んでいるところという心づもりで、背景に、月の上を飛んでいる牝牛や、演奏している猫、笑っている犬、足がついている皿やスプン、その上、ソロモン・グランディの墓標まで描き入れた。

 説明的に描かなかったせいもあるが、それに気付いてくれた人はひとりもいなかった。

 ただ、私の町の高校で、英語教師をしているイギリス人女性は、その絵の小さな写真を見るなり、「マザー・グースね」といった。さすがに、小さなときから、マザー・グースに馴れ親しんで育った人だと感心した。

 しばらく会っていない友人が、その展覧会を見てくれて、葉書をくれた。

 「牛らしいものがとびはねているので、このごろはお元気なのだろうと安心しました」とあった。