(5) 海軍水路部のころ
[2002/10/06]

昔の思い出は老いの楽しみだが、なかには首をかしげるものもある。あれはどういうことだったのかと。そのひとつが<海軍水路部>の思い出である。

昭和19年、女学校1年の3学期から2年の2学期までの1年間、私は東京で暮した。敗戦の前年に、なぜそれまでの神戸住居から東京へ移ったのだろう。

父は貿易の仕事をしていたが、戦争が激しさを増せば、そんな商売がうまくいくはずがない。酒が入ると「この子だけはやせさせないぞ」とくだを巻いていた。引越すのは東京の方が食糧が手に入りやすいからと子供の私には説明したが、それだけの理由ではなかったろうと思う。食糧も衣料も配給制で、大人たちは、闇ルートで足りない分を補うことに苦労していた時代であったけれども。

ともあれ、私が転入した杉並区のその女学校は、クリーム色の校舎で、ロッカー室も食堂もあるといったふうな、当時としてはモダンな学校であった。立派なチャペルがあったが、キリスト教は敵の宗教ということで目の敵にされていたから、一般の生徒は恐れて近づかなかった。

学生の労働力が、国家のために動員されるようになったのは、それから間もなくのことである。兵器をつくる工場へ、軍服をつくる縫製工場へ。私の学校では、教室が仕事場になった。

そして、そこで課せられたのが海軍水路部の仕事だったのである。

きっちりとタテヨコに並べた机に向かって、我々は着席する。まず一番前列に用紙が配られ、そこにある数字に、教えられた計算をして数字を書きこみ、うしろの席の人に送っていく。最後列に届いた数字は、今度は横並びで検算される。それのくり返し。なにしろ60年近い昔の話なので記憶はあやふやであるが、そんなものではなかったろうか。計算は簡単であったが集中力のいる作業で、よくミスをした。そしてあきっぽい娘たちがざわめいたりすると、後に坐っている監督のお姉さんが金切り声パンパンと叱責した。

「今、日本の兵隊さんたちは、遠くお国をはなれて私たちのために戦って下さっているのですよ。あなた達の計算が間違うと、その兵隊さんたちは航路に迷って、もう日本に帰ってこれなくなってしまいます!」

我々はひそかにその人のことを<ミス・ヒス・パンコ>と仇名をつけて呼んでいたが、遊びたい盛りの娘たちに仕事をさせるのは苦労多いことであったにちがいない。

監督官として若い海軍軍人もやってきていた。上着丈の短い制服が恰好いいと、陸軍より海軍軍人に、娘たちの人気はあった。しかしその人は無骨なマスクでニコリともせず、教室の隅に突っ立っていた。兄さんと歩いていてもとがめられる時代であったのである。女生徒の方は無遠慮な視線を送るが、その視線を感じないふうに立っているのも、又、難儀な任務であったろうと、今になって思う。

あの計算はしかしいったいなんだったのだろう。星の位置から何かの計算をして、航路を決定する資料をつくっていたのだろうか。

「ずっとずっと先で役立つ重要な計算です」と何度もいわれた。もちろんコンピューターなどなかった時代のことである。計算機代りに生徒が計算集計していたのだろうか。ほんの13か14歳の女の子であったのに。

1年も経たずに日本は敗戦を迎える。軍の上層部ではいつまでも持ちこたえられるという判断で、そういう計算作業を命じていたのか。

戦いが終れば苦労の賜物の計算結果は無価値となり、消滅したにちがいない。

作業中に空襲警報が鳴るようになった。我々は校内の防空壕に避難する。近辺に被害が出ない初期のうちは、むしろ壕舎の中の休息時間を楽しんだ。そして新しい遊びを生み出した。セリフだけの家族ごっこである。たちまち配役がきまり、即興劇をふくらましていった。私はお嫁さん。しゅうと、しゅとめ、坊や、隣の家族、愛犬役をする人まで出てきた。

やがて空襲は本格的となり、わたしは東京を離れて疎開することになる。

お別れのサインブックに、私の夫役であった人が「余は悲しいぞよ、奥の疎開じゃ」と書いてくれたのを覚えている。奥とは奥方、つまり私のこと、そのときの気分次第で殿様にも奥方にもなってよろこんでいたのだ。

疎開先で父が病死したので、私は東京に帰ることなく、又、友人たちとも会えずにきている。同じように年をとってきているはずだが、あの人たち、壕舎の家族たちも、あの頃のこと、海軍水路部のころのことを思い出したりしているだろうか。ハテなんだったかと首をかしげながら…