Vol.63 [2006/9/9]

新宿四谷から九段下へ

 新宿区三栄町から九段北1丁目に引っ越した。8月28日から、千代田区の新宿書房です。三栄町には8年余、お世話になりました。いずれ、このコラムの名前も変えないといけない。四谷では、フィルムアート社の奈良さん、津田さん、三冬社の野中さん、れんが書房新社の鈴木さん、高橋さんなどと楽しいつき合いをさせていただいた。

 また福昇亭、ごはん家、凡、味、三水、菊正などのお店では、我々の胃袋もたいへんお世話になった。しかし、この夏までに福昇亭は休業、三水は廃業。どこでも、世代交代、老齢化が進んでいる。みなさんにお礼の挨拶もできずに来てしまった。

 九段下はどんな町だろうか。明治5年ごろの地図には麹町区飯田町となっている。靖国通りの俎板(まないた)橋を渡れば、神保町はすぐそこだ。出版社もいろいろある。すぐ隣には風行社、光人社。そして少年写真新聞社。これはほんとうになつかしい。小学校の廊下に張り出されたあの『少年写真ニュース』です。道を渡れば、いかだ社、汲古書院、産業図書、作品社、竹書房、潮出版社、秋田書店。そしてわが流対協の雄、現代書館のビルの偉容が。目白通りを渡ると、松柏社、学陽書房、玄光社が。そしてハリー・ポッターの出版やその後の出来事ですっかり有名になった、松岡佑子さんの静山社も近いという。

 昭和初期、取次では東京堂、北隆館、東海堂、大東館があり、4大取次時代を画したという。しかし、1941年(昭和16年)の5月に、戦時企業統制によって、全取次業200余社が全国を一元化する配給元として、わずか1社に強制統合されて、「日本出版配給株式会社」(略称、日配=ニッパイ)が発足している。「出版報国」という言葉が跋扈していた頃だ。

 敗戦後の1949年(昭和24年)3月、ニッパイはGHQから解体指定を受け、業務停止した。同年の秋には、東販(現・トーハン)、日販、大阪屋、日教販、中央社など9社が相次いで創立された。その東販、大阪屋東京支店、太洋社の創業の地がここ九段下なのである。その名残りだろう、今でもここにはトーハン九段ビルがある。たしか80年代までは、太洋社の営業所があったのを憶えている。

 取次が集まったせいか、九段下は製本の町でもあった。坂田製本はいまでもここで仕事をしており、実は新宿書房の賃貸人さんは、以前ここで製本業を営んでいたという。九段下の取次の運送を引き受けた神田運送(現・カンダコーポレーション)が掘留橋を渡り、高速道路をくぐったところにある。

 『牛乳と日本人』(新版、2000年、吉田豊著、新宿書房)の「武家の商売」の章には、こんなくだりがある。
「(明治)5年(1873)には男爵・松本臣善が神田で牛乳搾取業をはじめた。6年には神田猿楽町に北辰社(牧場は麹町区飯田町3丁目の榎本武揚邸跡地、現在はその記念標が千代田区飯田橋1丁目にあり)ができたたが、これは子爵・榎本武揚や男爵・大鳥圭介らの共同経営。」

 あの箱舘戦争(明治元年=1868)を起こしたコンビがこの地に登場するとは。それにしても明治維新だ。機を見るに敏だ。大鳥活字の大鳥圭介がこのあたりを歩いていたとは。その記念標を毎日横目に見ながら事務所に向かう。こんどの事務所は3階。エレベーターなし。階段をのぼって、一歩一歩あがる毎日だ。秋の新刊に乞うご期待!

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