Vol.62 [2006/1/29]

編集はもはや絶滅危惧種の仕事なのか?

出版の現場から

新宿書房代表
村山恒夫 Tsuneo Murayama

編集はもはや絶滅危惧種の仕事なのか?



 中高年編集者はイラついている。本が売れないからか、リストラを食らって現場から引き離なされたからか。

 私が平凡社に一〇年ほどいて、新宿書房の後を継いだのが一九八二年なので、いまからはるか二五年前。その頃から今までの編集現場の変化を説明することもないだろう。当時はワープロさえない、原稿用紙と筆記用具の時代、まだ活版印刷が幅を利かせていた時代だ。朝日の書評に紹介されれば、五〇〇部は動くとか、ひょっとすると重版になるといわれた頃だ。本に対するきちっとした批評と反応があった。

 三年前に亡くなった編集装丁者・田村義也の追悼集(『田村義也 編集現場一一五人の回想』注1)を読んだ人から、「いい時代の幸せな編集者たちですね」といわれた。そう、そういうことかもしれない。当時はいつも著者と会って、話し合っていたような気がする。

 今はどうだ。この東京の小さな出版社でも、刊行までの編集ワークフローが変わり、そのスピードは加速している。

 新宿書房で最近刊行した本から説明してみよう。たとえば、『金尾文淵堂をめぐる人びと』(石塚純一著、)『ニッポンの素』(武田徹著、)『千年の修験』(島津弘海+北村皆雄編、)『なんだこりゃ!フランス人』『なんだこりゃ!アメリカ人』(どちらも、テッド・スタンガー著、藤野優哉訳、)『北欧映画 完全ガイド』(小松弘監修、)『山びとの記』(宇江敏勝著、)『チンドン屋!幸治郎』(林幸治郎著、)。まず、八冊すべてが完全データで印刷所に入稿されている。印刷はフィルムレスのCTP。入稿後翌日に白焼き(昔のオフセットの青焼きを想像してください)が出てきて、面付け、外字などを確認、問題がなければ下版、印刷、製本へ。

 印刷所入稿から遅くても正味一〇日で本ができる。八冊のうち、はエディトリアル・デザイナー(注2)が組版のフォーマットをつくり、写真図版などのレイアウトをし、ページアップ、初校から念校までのワークフローを管理し、完全データを完成。ここでは、従来の印刷所の役割の多くがデザイナーの仕事にとって変わられている。デザイナーがフォーマットを作り、印刷所が組み版をする場合()でも、各校正をデザイナーが最後までフォローし、最終の字詰めを修正して、完全データにもっていく。の二冊は訳者(画家でデザイナーも兼ねる)がDTPも担当した! は編集部が親本からOCRし、あとは外の組版所が完全データまで。Aの本には写真、図版が一〇〇点以上収録されている。こうなるとデザイナー氏の構想力と腕力に頼らざるを得ないし、昔だと考えられない作業が短時間のうちに実行される。こんなことも可能になってくる。

 『千年の修験』の各ページの天と小口にかかる雲の画像が各ページ一点一点違い、ページをパラパラめくると雲が流れる細工など、マックがなかったら、到底簡単にできなかったイタズラだろう(注3)。また、『北欧映画 完全ガイド』では刊行後、HP上において同書のアップデート版が担当編集者により、ほぼ毎週更新されている。

 中高年編集者のイラダチは、今の編集ラインに居場所がないからか。本づくりのお祭りの列にはいれないからか。組版が編集の中核になっている。著者はますます編集者領域に近づき、デザイナーもさらにさらに印刷所化しはじめる。

 編集者の役割も変わってきている。従来編集者の仕事は、1=著者(訳者あるいは編集プロダクション)との交渉人、2=会社の企画会議の乗り切り人、3=原稿整理・編集人、4=印刷所(製本所、用紙店)との交渉人、5=校正人、6=装丁手配人、7=宣伝広報人、およそこのあたりだろうか。

 これが、いまの私に当てはめると、1は残る。2はワンマン独裁だから不要。3、4は変わらずだが、時として原稿整理やファクトチェックなどをフリーの編集者にまかす。5では初校は全部外校(外部校正者)にお願いしている。私は内校をして、著者校と外校との統合を図り、ゲラ(校正)を戻す。6、7は変わらず。

 しかしよく見ると、仕事内容も変化している。3は社内DTPをしている場合、編集者が原稿整理をしながら、写真集め、権利渉外などの従来からあった編集者の仕事のほか、レイアウト、組版、校正刷りのデリバリーまでこなすことになる。

 となると、DTPをしない編集者の役割はいよいよ小さくなる。私の場合は原稿が入った後は、手配師であり、進行係となる。

 今の編集者は著者からの原稿(メール)を待ち、それからひたすら製作というインハウスの仕事に没頭する。

 ところで、中高年編集者がイラつく本当のワケは別にある。それは出版文化がすでに当の昔から世の中のメインストリームの中にないこと。デジタル資本主義の前で活字の教養がただの石ころのように扱われている。いや、出版の世界でさえ、もはや既刊書の歴史の積み重ねや実績が軽んじられ、まともな分析や、批判と評価が行われてないことを、一番知っているからだろう。

 そして自費出版の花盛り。「読むより書く時代」とは、けだし名言だが、編集の世界も「編むより書く」。編集者が出版現場から逃げ出して書く側に向かっている。

 しかし、まだまだ本の仕事は面白い。(注4)それに、一〇年前に比べて単行本の制作費はほぼ半減している。デジタル編集のたまものである。編集者が自分で「ほんとうに出したい本」「だれも出さない本」「ぜひ残したい本」を出版することが可能な時代ともいえる。昔は机ひとつ、電話一本あれば出版ができるといったが、いまはノート型PC片手に本が出せる。

 PCをもって、この安楽な町を飛び出し、世界の果てからフィールドワークを発信する。エチオピアの吟遊集団の村から、フェゴ島の漁村から、ソダンキュラの木工場から、だれも知らない世界を紹介し、誰も集めたことのない声を記録する、そういう新しい感覚をもった編集者を応援したい。もちろん、私は斥候や配膳係としてあるいは歩兵として、この長征(ロングマーチ)に参加するつもりだ。

注1 田村義也追悼集刊行会(連絡先=03-3226-5450新宿書房内)
注2 戸田ツトム+鈴木一誌責任編集の『季刊デザイン』(太田出版)を見ると、編集者のイメージの貧困と遅れがよく分かる。
注3 杉浦康平著『アジアの本・文字・デザイン』(トランスアート)を見ると、韓国、中国、台湾、インドなどの出版造本文化の奔流に目を奪われる。
注4 小さなメディアの動きが目覚しい。
京都の編集工房<SURE(シュアー)>は丸山眞男の未刊インタビュー『自由について』を書店を通さないルートで、四〇〇〇部!を売り切っている。(<SURE>075-761-2391)

注=本稿は『一冊の本』(朝日新聞)の2006年2月号に寄稿したものに一部加筆した。

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