Vol.58 [2004/2/15]

文字、色。人の輪・・・田村塾

自著を語る
『田村義也 編集現場115人の回想』


村山恒夫(編集者)
 
 数々の名著を世に送りだした大編集者であり、同時にすぐれた 装丁家として、戦後のブックデザイン界で独自の世界を築いた田村義也さんは、2003年2月23日、満80歳の誕生日を目前にして亡くなられた。
 安岡章太郎さんや小島信夫さんらの本から、沖縄、アイヌ、在日朝鮮人、部落解放運動、日雇い労働者の本まで約1500冊近いの本の装丁をされた。
 多くの読者に、その独特な文字使い、色使いで、強烈な印象を残してきたにちがいない。
 本書はその編集装丁家・田村義也さんの周りに集まっていたいわば「田村学校」「田村塾」の生徒、塾生115人たちが、編集現場から回想したものである。私もその一人だ。
 最後まで現役だった田村さんだが、岩波書店での編集者時代を知る若い編集者は少ない。今回、何人かの文章のより、その過激な仕事ぶりが紹介されている。本書はさながら「田村義也研究」の様相を呈しており、全編さまざまな人間・田村義也の情報に溢れている。
 30代のころは、劇作家の久保栄さんに傾倒し、およそ4年間にわたり、「赤木正」という名前で月刊誌に劇評を連載している。いったい会社の仕事は、この間、どうしていたのだろう。
 田村義也さんに装丁を頼んでくれという著者は多い。しかし、だれもが田村さんのところに行くのに足が重くなる。田村さんほど、内容にうるさく、要求の多い装丁家もいないから。
 まず、編集者である田村さんがゲラ(校正紙)を読んで、タイトルが悪いという。それだけも大変だが、時にはこんな内容の本では装丁はゴメンだと言いだす。
 自分の知っている著者、文章を読んだことのある著者の装丁は喜んでした。だから、ゲラを読んで、こんなもので本にするなんて、著者に失礼だと突き返された編集者もいる。
 そんなやり取りを、他の編集者もいる自宅の工房の中でやられることもあるから、気の弱い編集者はもう来なくなる。
 元来、編集者は曲者(くせもの)が多く、他の編集者に手の内を見せたがらない。編集者が大勢仲良く酒を飲み交わすことはあまりない。
 しかし、田村さんの周りにはいつも編集者が集まっていた。田村さんの終わることない楽しい話が聞きたくて、珍しいうまい酒が飲みたくて。田村工房は、入れ替わり立ち替わり現れる人たちでいつもごった返していた。
 そして彼らが持ってくる酒や肴が次々と卓上に出され、いつ果てぬとも知れぬ宴会になっていくのが夕暮れの日常風景だった。みな田村さんの繰り出す体験談と博学に打ちのめされ、そのうちその体力、酒力に圧倒される。
 いま編者たちの間には二つの夢がある。一つには「田村義也装丁博物館」というHPを開設し、装丁作品リストをより完全にし、カバーだけでなく、本表紙、化粧扉などの画像も公開すること。もう一つは、田村装丁本を保存公開してくれる大学図書館か博物館を探すこと。どこか、この宝物を引き受けてくれるところはないものだろうか?

(頒価3000円。田村義也追悼集刊行会刊。お申し込みは03-3226-5450の同会まで)
  

村山恒夫(編集者)
むらやま・つねお 神奈川生まれ。新宿書房代表。1970年、早稲田大学卒業。平凡社世界大百科事典、百科年鑑編集部をへて現職。1998年から2001年までマイクロソフト社のエンカルタ百科事典編集長を兼任 。


*『東京新聞』2004年2月2日夕刊掲載

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