Vol.56 [2003/09/23]

古地図の地名が動いた

 田村義也さんに最初に会ったのは、1980年に平凡社をやめて一人で百人社という出版社をつくり、1冊目の本の装丁をお願いする時だった。

 著者の田村紀雄さんが、装丁はどうしても、田村義也さんにお願いしたいというので、二人で岩波書店に出向き、近くの喫茶店で相談をした。

 ブックデザインと装丁に違いがあるとすれば、10年間の平凡社時代は杉浦康平さんのブックデザインの世界にどっぷりと浸かっていた。

 百科事典の編集はまさに集団での仕事であり、事典編集者は優秀な校閲、校正の人々に守られたいわば護送船団に守られた編集者だ。百科事典の項目には執筆者名が末尾にあっても、元の原稿は編集部のなかを回るうちに原形をとどめないほど、手を入れられ、役にはたつ?が個性のない無味乾燥な文体になっていく。

 出版社を始めても実は単行本の作り方をちゃんと知らない。著者との丁寧な交渉の中で本を作ることを、手探りで学ぶ。もちろん用紙、印刷、製本などの製作や装丁の段取りも知らない。そんな時期だった。

 その装丁の田村義也さんと会うのだ。

 田村紀雄さんは、実は義也さんとほとんど面識 がなかったが、田村義也さんは「一人で百人社か」と笑って、こころよく装丁を引き受けてくれた。

 あとで、田村さんは知っている著者や読んだことのある著者でないと装丁を引き受けないと聞いた。

 業余作家、日曜画家という言葉があるので、この時はさしずめ田村さんの業余装丁家、日曜装丁家時代の最後のころだった。

 「この本は四六の判型ですか?A5の本ですか」「A5の本は研究書であり教科書である。読み物だったら、四六判です」

 枚数の関係で安易にA5判を考えていた私だったが、先に送っておいたゲラを読んで、田村さんは内容からこれは研究論文でなく、ノンフィクションかドキュメンタリーだと喝破されていた。

 ところで、タイトルが決まらない。上毛、下毛の両毛地方の山間の町々で燎原の火のように広がった民衆言論の動きを海鳴りになぞって、山鳴りと表現して、『明治両毛の山鳴り―民衆言論の社会史』。民衆言論の秘やかな鼓動を表現したかった。実際に鉱山用語の中に「山鳴り」という言葉はあった。

 タイトルは辛くも合格。いよいよ装丁だ。

 「これは地図だな」ということで、まず古地図集めに頭を悩ます。正統的な百科事典派だった私は『利根川図誌』などを持っていくのだが、田村さんはもっと素朴な当時の地方の地図を求める。

 結局、大型書店の前で古地図の複製を売っていたのを買い、これをもっていった。文字も下手で、色刷りの版ずれがはげしいひどいものだが、田村さんは、その素朴な風合いを喜んだ。ただ両毛地方から流れ出る利根川を南北に長く描いている古地図をどう使うのかなと思いながら、仕上がりを待った。

 「うまくおさまりましたね」というと、田村さんは済ました顔で、「タイトルに隠れた重要地名はいくつか動かしました。川の流れもかえて、横にまげ、書き足して動きをつけました」。驚いた私にさらに、「こういうこと
は良くやるんです」とニヤリとおっしゃった。

 早くも田村装丁のマジック(図像の引用、リメーク、いたずら)にふれた思いだった。

*

 田村義也さんには33冊の本の装丁をお願いしたことになる。実は断られた本が一冊ある。田村さんのまったく知らない著者で、ゲラを読んでもらったあと、やっぱり無理だといって断られた。在日朝鮮人のおじいさんと日本の少女の交流を描いた小説だった。

 反対に、「どうしてこれを俺にやらせないのだ」と怒られたことがあった。

 一つは『牛乳と日本人』(1988)。本が出て何年かたった時だろうか、下の息子さんが大学を卒業して北海道内の牛乳メーカーに就職するというので、いろいろ図書館で勉強されたおり、この本を見つけたらしい。

 この『牛乳と日本人』は2000年に全面改訂版を出すことになり、晴れて田村さんの装丁をまとって、世に出た。

 もう一冊は『ガリ版文化史』(1985)。題字をガリ版名人の水谷清照さんに書いてもらい、カバーの下地には四国謄写堂の謄写版鉄筆用紙(4ミリ方眼)を横倒しにして使った装丁だ。

 「だれがやったんだ。もっといいのが出来るのに!おしいな」

 実はこれは、私が見よう見まねで版下を作って装丁したものだった。しかし、そのことを田村さんにはとても言えなかった。

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 本稿は、田村義也追悼集『田村義也 編集現場一〇〇人の回想』(仮)の寄せた文を大幅に加筆したものである。

 同書は2003年12月末刊行(頒価3000円、送料別)。注文は新宿書房気付「田村義也追悼集刊行会」まで。

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