Vol.50 [2003/3/12]

「敗北を抱きしめた」ある家族

引きつづき、編集装丁家の田村義也さんのこと。田村さんはかつて自分は東京生まれだが、ルーツは東北だと意識していると書かれたことがある(『東北学』第2号、2000年)。

母方の祖父、吉田亀太郎は岩手県花巻市生まれ。明治10年代から東北の町をキリスト教の開拓伝道師として歩いたという。

これから紹介する文は、『サタディ・イブニング・ポスト』誌に掲載された、戦後直後の田村義也さんの家族へのインタビュー記事である。同誌はノーマン・ロックウェルのイラストで有名なアメリカの総合雑誌。

まさにジョン・ダワーの描いた「敗北をだきしめた」家族の肖像のようだ。『みすず』502号(2003年)の「2001年読書アンケート」で、田村義也さんは、ダワーの本を取り上げている。

「敗戦で軍隊から廃墟の街に復員した。大日本帝国から日本国へ--この国のかたちが新しく決まる重要な時期を詳細に跡づけた労作。同時代人として興味深々。まず、巻末の注から資料の扱い方を探りつつ読む。」

翻訳は柴野次郎さん(朝日新聞社出版局)。

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SATURDAY EVENING POST    1945年11月24日号
William L.Worden記者

パパさんとママさんを訪ねて

東京と横浜にはさまれた郊外の地に暮らす、ある日本人家庭を訪れた本誌記者が、彼らの戦後の暮らしぶりとともに、彼らが抱える不安と危うげな希望について報告する。

東京発・軍事郵便電

田村光太郎は、日本の平均的中産階級よりもお金持ちである。田村家は、家族のうちの二人が英語を話せることと、家族全員がキリスト教徒であるという点で、典型的な日本家庭とは言いがたい。光太郎の小柄な妻、忠子は、私立幼稚園の教師であった。四人の息子たちのうち、長男のタダユキは二年間、スマトラで陸軍士官の職にあり、次男の義也(この名はヨシュアに因んでいる)は、戦争が終わる二週間前に中尉に任じられたばかりであった。十七歳の三男、明は、アメリカでいえば高校二年にあたる中等教育を受けている。十五歳の四男、千尋は、授業後に働く許可を得たところである。

東京の裕福なキリスト教帰依家庭で生まれ育った田村は、戦前には、アメリカの事務機会社の日本支社で働き、オハイオ州での営業訓練コースに派遣されたこともある人物である。

アメリカから帰った田村は、セールスマン養成の仕事に携わり、好成績を上げた。セールス競争での賞品として、ボールを蹴ろうとするサッカー選手をかたどった金属製の灰皿を貰ったほどである。大雑把に考えて、アメリカで言えば、年収六千ドル程度の収入を得る職に就いていた彼は、自分の勤める会社が、戦争をひかえて日本から撤退するという事態に直面することになった。その後は軍需産業で事務職に就いたものの、敗戦によってその職も失い、現在の彼は失業者である。

田村の生涯の趣味は、日本史研究である。東京の郊外にある都立高等駅の近くにある彼の自宅は、数百冊の歴史書のほか、哲学書、小説、随筆、詩集などであふれている。これ以外にも、空襲を避けて地方の親戚の家に送ったまま、まだ手元に戻ってきていない本があるという。田村は、カメラを手に散歩をするのをたいそう楽しみにしているほか、家では、日本の国民的娯楽ともいえる碁とチェスという、似たところがなくはない二種類のゲームで時を過ごしている。半音階の音楽を好んでいる彼は、ピアノも持っている。末息子は音楽のレッスンを受けており、アメリカの歌をいくつか、バスでなんとか歌えるほどになっている。

田村夫人も、キリスト教帰依者の家庭に生まれた。ドイツ式幼児教育による徹底的な訓練を受けた彼女は、自室の壁に、幼稚園思想の提唱者であるドイツ人の肖像をかけている。彼女の結婚は、信仰を同じくする者同志間の、日本式のお見合いによるものらしい。

四人の息子を持ち、自らは教職にあり、夫はいい仕事に就いているという、田村夫人が抱えていた条件は、戦前の日本では、女性として非常に恵まれたものであった。六室と大きな玄関を持つ二階建ての家には、電気・ガス・水道が完備していた。和風の住まいなので、部屋には畳が敷かれ、低いテーブルを使い、椅子とは縁がない。とはいえ、テーブルは美しい白檀製のものだし、立派な家具である箪笥には、食事用の器と同じように良質の漆を使ってある。田村夫人は、ヨーロッパ製の良品なみに薄く仕上げられた陶製のティー・カップも持っている。この家にはセントラル・ヒーティングのシステムが備わっているわけではないが、日本の家としては快適である。召使いを雇うほどの余裕はなかったにせ よ、この家には、田村家の出身地からやってきた田村シンという親戚の娘が住み込んで田村夫人のお手伝いをしている。部屋の壁には、賛美歌第一〇三番の十五、十六節を日本語で書いた掛け軸や、田村夫妻の両親たち、四人の息子たちの写真などが飾られているほか 、次のような奇妙な文句も掲げられている。

    私は日本のために
    日本は世界のために
    世界はイエスのために
    すべては神のために

これは、田村が学業をおえるときに、老いたキリスト教哲学教師に貰ったたものである 。

田村夫人が持っている服は、もちろんほとんどが日本風のものであり、外出用の着物は二十着ほどになる。彼女が持つ帯のいくつかは、絹製の重厚で豪華なものである。うまくやりくりしてきたものの、家計が厳しい状況にあるのも確かである。たとえば、息子たちが可愛がっていた犬が死んでしまったとき、代わりの新しい犬を、田村家はもはや飼うことはなかった。犬の食費と年間五円の登録料のことを考えざるをえなかったのである。その代わりに、彼らは、お金がほとんどかからない白いネコを飼うことになった。戦時中、このネコは、たまに出される魚の食べ残しか家の周囲に張りめぐらされた生け垣のあたりで自分で見つけた食べ物以外には、大豆と米だけの食事に慣れるしかなかった。

ほかの多くの日本家庭とくらべれば、田村家が戦争によって受けた害は少なかったと言えるかもしれない。しかし、田村が軍需産業へ転職を余儀なくされたために給料が半減したことや、田村夫人が幼稚園閉鎖によって失職したことに加えてインフレが進んだために 、経済的にはマイナスばかりだった。もっとも三男の明は、授業後に働いてなにがしかの金を稼いだし、長男と次男は、軍務に対する乏しい給料の中から仕送りしてきた。この二人は徴兵されたとき大学に通っていたため、彼らが学費を払う立場から、国家から給料を貰う方に変わったことで、家計にとって多少は救いとなった。

しかし、田村家は、戦争の進行につれて次第に苦しくなっていった。最後には、田村家が受ける月当たりの食料配給は一〇〇円分ほどにしかならなくなったが、これでは一家五人が食べていけるわけはない。そこで、彼らは闇市に頼るしかなく、一月に二〇〇円分の食料をこのルートで得た。闇市での、彼らにとっては大変な出費にもかかわらず、彼らは最低限の米と大豆しか手に入れることができなかった。ごくたまに生魚か干し魚が手に入ることはあったが、その他には、自宅の狭い庭で育てた野菜しかなかった。

あの忌むべき太平洋戦争で、近親者を失わなかったことは、田村家にとっては幸運だった。アメリカ軍の東京・横浜爆撃にもかかわらず、この二都市のいわば境界に位置する郊外に住む彼らが被害を受けなかったのは、まさしく幸運だったというしかない。田村家の近辺では住宅、工場、学校、事務所など多くの建物が焼けたり壊れたりしたのにもかかわらず、彼らの家がある路地だけが被害を免れたのであった。

爆撃によってガス供給設備が破壊されたため、田村夫人とシンは、乏しい薪を使って効率の悪いコンロで調理しなければならない。ときにはお茶をいれるためのお湯を、捩じった紙を薬罐の下で燃やすだけで沸かすこともあるほどである。これではたまらないので、息子たちが庭や路地の端から木の枝をとってくるしかない。皿を洗うときも、そのためのお湯を沸かすことができればいい方といわざるをえない。

幼稚園閉鎖後、田村夫人は、田村家から地下鉄と路面電車を乗り継いで二時間ほどの場所にあるカトリック系の聖母病院で、たまに看護の手伝いをしていた。彼女とシンは、日常の配給を待つという、食べ物を手に入れるための義務を二人でこなした。配給は米と豆だけということが多かったため、数キロ離れた闇市まで行くことも必要だった。二人の女性は、庭で耕作することに時間のほとんどをとられていた。とにかく、寸分の隙間なく何かを植えるしかなかったのである。

この庭は、今も、彼らにとって生命線である。今の日本でありふれている唯一の食品は、本州でとれるお茶である。わずかな米が国内から供給されるほか、朝鮮半島と満州からの戦時備蓄用の豆があるだけなのだから。田村家で食されるほかのすべての野菜は庭で、自分で作るしかない。じゃがいも、たまねぎ、きのこ、かぼちゃ、アスパラガス、ピーナッツ、レタス、キャベツ、なす、かぶ、そして木になるいちじくとなし。ぶどうの木も植わっている。

降伏の二週間後に、田村夫人は、三人のアメリカ人客に、日本食の見本と称するものを出すことになった。まず、きのことじゃがいもを具にした、かつお節ダシのお澄まし、これは日本で長く親しまれてきたものである。つづいて白米ごはんと水に浸した後に茹でて ペースト状につぶした干し豆。この白米と豆のために、田村家は、配給の一週間分を費やしたのであった。さらには、遠くの闇市で苦労して手に入れた缶詰の鮭の小さな一切れと 、庭でとれたトマトと茹でてつぶしたかぼちゃの花とに酢をかけたものを載せた一皿。また、黄色く焼いたかぼちゃ(これは童謡のハバードのかぼちゃに似ていなくもない)を盛った鉢と、青物野菜のように、茹でただけのかぼちゃの芽を入れた鉢もある。きざんで、 二日ほど塩と糠につけただけで生で食べるなすと、缶詰のみかん、新鮮ないちじく、木に 残っていた最後のなし二個とお茶もたっぷり用意されていた。パンもなければ砂糖も見当たらない。みかんの缶詰は、何ヵ月ぶりかに、特別配給品として、この家族のもとに届いたものである。

どう考えても、これは御馳走である。日本の感覚で言えば、宴会料理と言ってもいい。しかも、これは三人の客と田村氏だけに供されたものであって、田村夫人とシン、そして家にいた三人の息子たちはこれに与ることはできなかった。戦争前には個人的にたいそう親しくしていたアメリカ人たちを歓待することは、田村夫人にとって、平和を祝う意味を持ってもいた。

敗戦は、田村夫人に、家庭を覆っていた日々の心配からの解放をもたらした。敗戦直前の何ヵ月かは、外出のたびに、戻ってきたときに家がそのまま無事に残っているかどうか不安になったものである。皿、銀製品、着物や貴重書などの金目の家財は、できるかぎり庭に埋めたり、田舎に送ったりしていた。平和が戻った後の二週間ほどで、一家は埋めたものを掘り出した。数カ月も埋められていたため、形がくずれたり、泥まみれになったり湿気でぼろぼろになったものもあったが、大部分は大丈夫だった。田舎に送ったものは、運送事情がよくないため、まだ戻ってきてはいない。田村家にはトラックを雇ったり、手引き車よりましな運送手段を借りることはできないし、鉄道貨物便もまだ復旧してはいないのである。

田村の失職と、三男のアルバイト終了のために、家計は追い詰められている。過去数カ月にわたって、貯金を切りくずして暮らしており、田村が職を得るまでは、資産を食いぶつしていかざるをえなくなっている。さらに、最近の金融混乱も大きな痛手を与えている 。最新の軍事交換レートは、一ドル一五円だが、今や誰にも、円がどれだけの価値を持つのか(価値があるとしての話だが)わからない。しかも、給料はそれほど増えているわけではない。田村夫人程度の教育を受けている女性が事務職につけば一月に一七〇円くらい、田村の場合なら、二〇〇円から三〇〇円くらいは稼げるだろう。ただし、職を得られればのことだが。三男の明は、フルタイムで働いたとしても六〇円から七〇円以上を得るのは難しいだろう。

現実問題として、東京近辺には消費用物資などないに等しい状態である。田村家では、この一年半の間、服を買ったことがない。履きつぶした靴の代わりは木靴である。この木靴は、湿気を防ぐために五センチほどの横木が下につけられた平らな靴底と二本のひもからなる代物である。この木靴を履いた人の歩くさまはぎこちなく、また、長い距離を歩くわけにはいかない。この木靴は、日本の下層階級の間で常用されてきたものだが、田村家のようなレベルの階層では、戦前には滅多に使うことはなかった。しかし、いまや田村家 の人々は、革の軍靴を履いている軍隊帰りの次男以外はすべて、この木靴以外に履く物がないのである。

円の価値をめぐる混乱は、いまからあげる物価の例からもわかるだろう。ごく普通の日本更紗は三〇円、ビール一瓶が四円、時代物の中古車が八万円。もっとも、すべてはそうした物が見つかればの話なのだが。レストランは外食券なしでは利用できないにもかかわらず、四円以上とられることも珍しくはない。しかし、田村家は、少なくとも一万八千円 から二万円の価値を持っているし、養殖真珠のネックレスは、しかるべき所へ持っていけば千円くらいにはなるだろう。普通の店では、ネックレスなど見当たらないのは確かであるが。ともあれ、田村家の人々は、必要最低限のもの以外を買うことができない状態にある。この家には酒やビールなど影も形もなし、また彼らは外食に出かけない。

田村氏にとって、通訳以外の仕事がみつかる可能性は少ない。彼が昔勤めていたアメリカ企業は日本に戻ってきそうもないうえ、いまの日本は、軍隊帰りで職のない男たちであふれかえっているのである。それに、ホワイトカラーよりも建築労働者の方がはるかに重宝されていることも間違いない。通訳なら、田村は少しはましな臨時仕事にありつけそうだ。彼の英語力は、すこしさびついているものの優れている。「戦時中は英語を使うのは賢いことではなかった」と彼は言う。「妻も私も、この五年ほど英語を使わなかったので、ずいぶん忘れてしまった」

田村夫人にとって、今後のことは心配だが、息子たちが頼りになりそうだ。戦争が終わる一月前には、軍隊にとられた息子たちは二人とも生きて帰ってはこないと覚悟せざるをえない状態だった。タダユキが所属する部隊はスマトラで消息不明になっており、戦闘中に彼が死んでいる可能性は高かった。八月初め、彼からの手紙が届いて、とにかく生きていることはわかった。彼らがオランダ軍とオーストラリア軍にどのような形で降伏したのかということや、帰国のための輸送船事情など、はっきりしない点は多いが、彼が生きて帰ってこれるであろうことはほぼ間違いなくなった。次男の義也も、終戦直前にはたいそう危険な状態にあった。陸軍レーダー部隊の一員として沿岸警備船に乗っていた彼は、日本近海を遊弋するアメリカ艦船と、日々頭上を通過する爆撃機という二重の脅威の下にあって、無事に生きて帰る確率はなきに等しかった。

しかし、彼は動員解除の第一陣となって、アメリカ軍が東京に入った日とちょうど時を同じくして我が家に戻ったのである。

義也が、アメリカ人客を迎えての夕食の場に姿を現したのは、あきらかに、父親に命令されたからであった。語学教科書の助けをかりながら英語を少し話したあと、彼はあぐらをかいて部屋の隅にすわりこみ、一時間以上の間、黙りこくっていた。その彼がようやく表情を和らげたのは、同行のカメラマンが、彼の軍服(まだ輝きを失っていない新しい勲章をつけたままきちんとしまってあった)を箪笥から出してきて、末弟に着せてみせて欲しいと頼んだときだった。

田村は、大学で経済学を学んでいる最中に軍隊にとられた義也が、できるだけ早く学校に戻り、長男も日本に帰りつけばすぐに学校に戻るだろうことを期待している。また、徴兵制度はなくなったので、三男と四男が軍隊にとられることはもはや考えられない。

田村家は、田舎に土地を持っていないという悪条件を抱えている。東京の多くの家庭が農業地帯に戻っており、もしも、日本が農業国家状態にされたままなら、二度と東京に帰ってくることはないだろう。しかし田村家は東京以外に住むべき場所がない。彼らはこの荒れ果てた東京に住み、給与所得によって生きていくしかないのである。

じつのところ、ママさん、つまり田村夫人にとって、戦争は、以前よりも多くの自由を彼女にもたらすものだった。彼女は、ほかの多くの日本の妻たちと異なり、もともと夫から手荒い仕打ちを受けたことがなかったわけだが、戦争は、男女両性の平等化を少しは進めるきっかけとなったからである。いまも、田村家は客人に対する極端な形式主義をはじめ、古い習慣にとらわれているように見えるが、それは、たんなる日本的礼儀なのかもしれない。何度もお辞儀を繰り返してのお出迎え、ほかの家族は無視しての客人と主人の間だけでの接待・・・。しかし、夫と妻は対等な立場で話しているし、男たちも、給仕や片付けを分担している。

田村は、日本にも民主主義がもたらされることを願っているが、彼による民主主義の定義はいっぷう変わっている。「政府はやはり何をなすべきかについて私たちに指示すべきだ」と彼は言う。「しかし、私たちは政府の決定に対して反対する権利を持たなければならない」。彼は、民主主義の世になれば人々が代表者を選挙で選ぶようになると思ってはいるようだが、それがとくに重要なことだとは思っていないようだ。

マッカーサーが指令した婦人参政権についての話になったとき、ママさんは笑って頭を横に振った。田村はこの問題について「いつかはそうなることもあるだろうが、それまでにはずいぶん時間が必要だろう。まだまだ準備が足りない」と言う。政治というものに関わりを持ってこなかった彼は、前よりもいっそう、政治とは無縁でいたい気持ちなのである。

ママさんは、田村以上に政治に関心がない。なにしろ心配事は山ほどある。食べ物や服をどうして手に入れようか、長年使ってきたアイロンやラジオが壊れたら代わりの当てがない、ガスはいつ復旧するだろうか、夫はいつ仕事を見つけられるだろうか。外国人客たちをもてなす間にも、彼女は、武勲をたてる機会がないままに敗軍から家に帰ってきたばかりの次男のむっつりした顔をたびたび見やるのであった。

田村家の人々は飢えてはいない(正確には、まだ飢えてはいない)。この冬、彼らは寒さに苦しむだろう。しかし、日本やヨーロッパで仮小屋の中に押し込められている人々のことを考えれば、彼らは、よりましな屋根の下で暮らしているのは間違いない。また彼らは、大戦初期に日本軍に蹂躪された地域の人々のようにひどい目にあったわけでもない。田村家の男たちは、戦争の大惨禍の後で大きな意味を持つ、健康と教育に恵まれている。 彼らには納得がいかないかもしれないが、彼らが支えてきた、そして、今も支えつづける日本帝国が犯した罪を考えれば、彼らに対して強い憐れみを感じるのは容易ではない。彼らは日本人であり、あの大がかりな太平洋侵略計画が成功していれば、その儲けに与ったであろう人々なのである。彼らは、中国を破壊し、フィリピン人をはじめ弱い人々を無慈悲にも踏みつけ、アメリカ人捕虜を虐待した国家の一員であるのだ。この事実を決して忘れてはならない。

とはいえ、このママさんに好意を持たずにはいられなかったのも事実である。

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