Vol.49 [2003/2/28]

1400冊の本を編集装丁した田村義也さん

編集装丁家の田村義也さんが2月23日になくなった。享年79。「田村義也 葬儀式」は25日の午後1時半より自宅近くの日本基督教会玉川平安教会礼拝堂で親族中心に執り行われた。

以下の文は『図書新聞』に書いたものです。
また、末尾につけた文章は、1996年4月27日に行われた「田村義也著『のの字ものがたり』出版を祝う会」の呼びかけ文(文・村山恒夫)です。

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1400冊の本を編集装丁した田村義也さん       図書新聞(2003年3月15日号)
               
村山恒夫

九品仏の駅を降りて右にまがり、商店街のまっすぐにいって環八が見える角をまがるか、すぐに右にまがって広い道に出会うと左に折れそのまま真っすぐに行くかは、その日の用件内容や天気しだいだ。再校の要があったり、デザイン変更が予想されるときは迷わず、すぐに右にまがり、人気のない通りで頭を冷やす。

チェジュ島のお土産トルハルバンの置かれた狭い路地を中に進み、玄関のドアをあける。声をかけてもだれの返事もないし、人気もない。たまに夕方近くの時間だと、夫人が弾くピアノの音やかわいい生徒の声が聞こえたりする。

明るい日差しの中から急に暗い家のなかに入り、目がなれるまでかなりの時間がかかる。まもなく目の前では、廊下の横のガラス戸のついた書棚の中に並んだ、黒黒した枠に中の赤や青の原色を施した本たちが、まるで生き物のように動き回りはじめ、うなり声をあげる。

勝手にそこにあるスリッパをつっかける。食事が終わってからまもないとおもわれる生暖かい空気がよどみ、残り皿がそのままになっている居間と台所にはさまれた廊下をさらにすすんで、左手のドアをあけて部屋にはいる。

この仕事部屋の主、田村義也さんは、かけっぱなしのテレビの横の机にすわってタバコをくわえながら電話をかけているか、後ろを振り返りもせず鋏や糊をもって仕事をしている。八畳ほどの部屋はすざましい様相を呈している。お客が座ることのできる長椅子があるにはあるが、床には足の踏み間もないほどの本やコピーが散乱していて、崩れそうな本やゲラやコピーの山を挟んで、田村さんと話をすることになる。

ドアの右奥には2本の書棚があり、ここには参考にした本や贈呈された本が置いてある。主のすわっている机にむかって右手には壁いっぱいに自ら装丁された本がびっしりと書棚に詰まっている。ここでもその本たちは叫び声をあげ、存在を主張している。そして両面の壁から、ところ狭しと切り刻んだ文字やカバーや表紙の校正刷りや刷り出しが、さながら褌を干しているように吊り下げられている。過剰な紙類が目を射す。

田村義也さんに最初に装丁をお願いした本は、田村紀雄さんの『明治両毛の山鳴り――民衆言論の社会史』だ。1980年の秋だった。田村義也さんは当時岩波書店の『文学』の編集長をされていて、岩波の近くの小さな喫茶店で二人の田村さんとわたしは装丁の相談をした。

わたしはおよそ10年いた平凡社をその年の6月に退社し、百人社という出版社を一人!で始めたばかりだった。平凡社では世界大百科事典、百科年鑑の編集部に所属。この間、杉浦康平さんとその事務所の人たち(中垣信夫、鈴木一誌、赤崎正一、谷村彰彦などの各氏)に徹底的にしごかれた。平凡社で資料写真の収集の仕方や編集術を体得したが、実は単行本の製作に関してはズブの素人に過ぎなかった。

田村義也さんはみずからを「編集装丁者」と好んで名乗った。「装丁・造本という仕事は、編集者の仕事の中でその最後の仕上げであり、まとめである」これは、田村さんがよく言ってきたことである。装丁をお願いする際に、よく議論したのは、書名を決めること、次に本の目次作りや構成だ。

「ある距離をおいて介在し、全体を按配するのが編集者の仕事である。もとより、編集者は表に出るべきでないから、いわゆる『黒衣(くろこ)』のごとく、「縁の下の力持ち」として立ち回る。したがって、注意深い編集者がいないと、完璧な本はなかなか生まれない」(田村義也『のの字ものがたり』1996、朝日新聞社)。たしかに気の利いた写真の挿入や索引の出来などは編集者の資質(怠け者かそうでないか)に左右される。

編集者としての田村さんのキャリアをいまさら説明することもないだろう。装丁にあっても、その編集者としての役割をいかんなく発揮された。まさに「注意深い編集装丁者」だった。

沖縄や在日文学、部落解放運動、アイヌといった分野の本の誕生も編集装丁者・田村義也さんの編集力によって生まれてきたにちがいない。わたしの場合も、『風の自叙伝』(旧版、野本三吉)、『海を渡った朝鮮人海女』(金栄、梁澄子)、『色丹島記』(長見義三)などもそうして生まれた。

昨年は6年がかりの「宇江敏勝の本」の最終巻、『若葉は萌えて―山林労働者の日記』と木村迪夫さんの『百姓がまん記』の装丁をしていただいた。このころから、お宅にうかがうと、ピアノの横の寝椅子や仕事場の長椅子で寝ていらっしゃることが多かった。

しかし、ここでも書名に粘る、材料になる絵集めの要求は高い。装丁はゲラ読みからはじまる。「甘いな!」「前のコラムは弱い。後ろへまわそう。ここを結語に伸ばすほうがいい」などなど批評というより指令が飛ぶ。これはいつものことだ。

宇江敏勝さんの『若葉は萌えて』は絵柄さがしで難航。既刊本との差異も出さないといけないから、新鮮な図柄がほしい。さんざん図書館に通ったあげく、『吉野林業全書』を見つけ、オーケーがでた。こんな時がいつもうれしい時だ。

『百姓がまん記』は書名で難航。「百姓の目玉」「百姓の足跡」「の背中」「の足裏」「の歩き方」「の憂鬱」・・・。二〇も三〇も案をだすが、不合格。しかし「農民」でなく「百姓」には二重丸。

戦後の農政に振り回されてきた一人の農民詩人のニッポン農業へのレクイエムエッセイ。 辞書をみると、「がまん」には「耐え忍ぶ」という意味にほかに「我が意を通す」「強情」の意味があることがわかる。この本にぴったりだ。しかも「我慢」でなく「がまん」。そして「百姓のがまん」でなく、クロニクルだから、「百姓がまん記」。

著者の木村迪夫さんは山形の上山市在住。『やまびこ学校』の佐藤藤三郎さんと高校の同級生。自分の庭続きの空き家に小川紳介監督を呼び寄せ、映画『ニッポン国古屋敷村』完成の産婆役となったひとだ。木村さんに電話して、こどもの版画をさがしてもらう。

こうして、書名の文字とおおよそのレイアウトがきまる。田村さんは、きまってモリサワの見出し明朝、かな民で縦ややツメ、70Q正体、長1、長2、長3のバラ打ちを要求する。そして書体を取混ぜて組み合わせ、ボールペンで書体の各所を太らせたり、コピーを繰り返すという、田村流の版下文字の完成にむかう。

文字が完成すると、カバー、背、本扉、オビにつかう、文字版下セット、そして基本設計図、色指定、用紙の指定、花布、栞の指定まで書き込んだ画用紙の原稿をいただく。たいてい太い鉛筆の大きな字で書かれている。そして最後は、玄関まで編集者を見送り、「あとはよろしく」と深々とおじぎをされる。ここから版下校正へ進む。『百姓がまん記』は田村義也装丁の最後の作品の一つになってしまった。

実は入院中の田村さんを激励しようと、有志のものが「田村義也装丁作品目録 1959~2003」の暫定版を4月5日の80歳の誕生日までに作ろうと、準備していた矢先のことだった。この目録原稿によると、田村義也装丁作品数は44年間でおよそ1400冊のようだ。私は、22年の間に田村義也さんにたった30冊の本の装丁をお願いできただけだ。ほんとうにわずかだが、中身の濃い授業だった。わたしは「田村義也本の学校」の生徒として、ほんとうにたのしい時間を過ごすことができた。

2月24日の自宅での身内だけの前夜式が終わったあと、ひとり田村さんの仕事場をのぞいてみた。主がここで仕事をしなくなって3週間ばかり、部屋は冷え切っていた。部屋の真ん中にあった本と紙の山はきれいに片付けられていたが、机の上や本棚から吊り下げられている校正紙はそのままだった。ついに完成できなかった鎌田慧の本、その「鎌田慧」の著者文字が机近くの壁から下がっていた。

まもなく、『田村義也装丁作品目録』が出来、回想集の企画も立てられるかもしれない。わたしの夢は、それらの仕事の延長として、インターネット上に「田村義也装丁作品」のサイトを立ち上げることである。そのサイトでは、書名、著者名での検索のほか、各本の資材データ、印刷方法、印刷所、製本所、編集者などのデータもわかる。そして、それぞれの書影の画像が公開されている。なかなか知られてないのが、本表紙の図柄や本扉の図柄。カバーより傑作な本表紙がたくさんある(田村さん、ごめんなさい!)。もちろん、田村さんのコラムも読める。そんなサイトの実現を夢見ている。

偉大な日曜装丁家ということなら、ぜひ「青山二郎 と田村義也の装丁」や「田村義也、田村明、そして田村家の人々」「編集者としての田村義也の時代」といったテーマでこれから、さまざまな人がアプローチするにちがいない。

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田村義也著『のの字ものがたり』出版を祝う会 


拝啓 かつてない厳しい冬でした。ようやく桜の花のたよりを聞く季節になリました。みなさま、おかわりなくお過ごしのことと思います。

さて、我らが師、田村義也さんが、このたび、『のの字ものがたり』(朝日新聞社刊)を上梓されました。本書のもとになったのは、一九九〇年七月から一九九二年十二月まで二年半にわたリ、TBSの月刊誌「調査情報」に連載されたものです。四六判横ドリの変型判・貼箱入りの形をとって、ついに出版となりました。これは田村義也さんの初めての著書であるとともに、編集と装丁の仕事の実際の有りようを、百余冊の本を例に、それぞれの本が出来上がっていくまでを、かずかずのエピソードをまじえながら具体的につづった、他に類をみない本です。

田村さんは、みずからを<編集装丁者>と好んで名乗ります。そこには田村さんが言われる「装丁・造本という仕事は、編集者の仕事の中でその最後の仕上げであり、まとめである」という言葉につながる田村さんの思想があります。それゆえ、この『のの字ものがたり』は、いままで出版されてきたグラフィツク・デザイナーによる「装丁論」や、第一線を退いた元編集者による「文壇記者回想録」とはまったくちがう、本の誕生物語を圧倒的なおもしろさで語りかけてきます。

文字の力、ワク、パターン展開、掟破りの色使い、漆黒、色刷活版印刷。これら田村装丁ワールドのキーワードが、酒と煙草と大議論が渦巻き、コピー紙やゲラや切り刻んだ文字の切れはしが足元に散乱し、壁には校正刷りが所狭しと吊り下げられた、あの世田谷奥沢の田村工房から発せられ、そしてひとり深夜に机に向かう田村さんの孤独な手仕事によって定着されてきたことを、この本で知ります。

本書の巻末に収められた「田村義也装丁作品リスト」には驚愕させられます。ここには一九五九年から一九九五年八月までの、千点に及ばんとする書名・著者名・出版社名が記載されています。活字離れ、社会科学書の不振が叫ばれはじめてきた現在の状況にまるで抗するかのように、田村さんの装丁の仕事が活発になってきました。この数年は、年間平均五十点前後の装丁を手がけておられます。

このリストは、大出版社の無味乾燥な図書目録とは違う、本の表紙と背があざやかな出版文化の地図となってよみがえるような、もう一つの同時代史といえないでしょうか。経済優先の中で、モノとしての美しさを切り捨ててきた日本語の出版界に贈る本として、本書ほど、ふさわしいものはありません。

つきましてはこの本の出版を祝い、田村義也さんと久美子夫人にますます活躍してもらうために、ささやかな宴を企てました。ふるってご参加ください。                                   敬具

一九九六年三日吉日

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