Vol.45 [20002/10/19]

山びとの作家の半世紀

10月16日に宇江敏勝さんの『若葉は萌えて』が配本された。本書は「宇江敏勝の本」の6巻目。1996年に第1巻の『森をゆく旅』を刊行してから、6年。第1期全6巻の「宇江敏勝の本」(装丁=田村義也)が無事に完結しました。

熊野山中に生まれ、育ち、働き、暮らす。「山びとの作家」宇江敏勝の半世紀におよぶ記録と思索の集大成である。

『若葉は萌えて』では、欅源三郎さんの写真もすばらしい。

本書、本シリーズによって、さらに多くの人々の間に新しい出会いが生まれればと願っている。どうか、みなさまのお力添えを頂戴できましたら幸いです。

まもなく、第2期「宇江敏勝の本」の編集に着手する予定です。

さて、以下に紹介するのは、新宿書房での宇江さんの最初の本、『山に棲むなり』(1983年、A5判変型、装丁=吉田カツヨ)が出版されたときに、小冊子『日没国通信』に掲載されたエッセイである。単行本未収録のエッセイなので、ここに再掲載します。

「山に住む作家であるが、隠棲しているわけでない。日々、労を惜しまず仕事する。そこから発する文章は虚無に落ちず、生活を刻みながら潤いに満ち、そのまま記録であり、時代を写す鏡となっている」・・・・・作家・塩野米松


親の仕事と子どもの遊び                    宇江敏勝

 四月のことだが、紙漉(す)きを見せてもらう機会があった。
 一つは高野紙である。高野紙は高野山の書籍紙として千年の歴史をもち、明治のころの最盛期には約六百戸が紙漉きをしていたという。現在では中坊君子さん(七十五歳)が、娘さんと二人で伝統の灯を辛うじて守っているのみである。

 ところで紙漉きの里の子どもの遊びについて、おばあさんから聞いたはなしも印象に残った。

 母親たちが紙を漉くいっぽう、台所の後始末などは女の子の仕事で、里を流れる古沢川(こさわがわ)で膳や茶椀を洗ったという。そのころはまだ食卓というものがなくて、めいめい蓋のついた小さな箱膳を使っていた。ところでその箱膳を洗うとき、少女たちは蓋に水をすくいあげ、たがいに紙を漉く真似をしあって遊んだそうだ。高野紙の簀(す)は萱の細い穂を編んだ独特なものである。その簀をあやつる微妙な手つきに少女たちはあこがれて、やがては上手な漉き子になる自分を夢見たのだ。

 つぎにおなじ和歌山県内で、保田(やすだ)紙で知られる清水町へも私は足をはこんだ。有田川上流にあって山保田(やまやすだ)とも呼ばれたそこも、かつては全村あげて紀州藩の御用紙や海南地方の傘紙を漉いていたのである。現在ではお年寄りの福祉活動として、町の施設でわずかに漉かれている。

 そこで聞いたのは男の子の遊びである。

 紙の原料である楮(こうぞ)は、皮を剥ぐと本質部分は薪ぐらいにしか用のないものである。そこで子どもたちは皮剥ぎなどを手伝うかわりに、木をもらった。それを田圃の溝や小川に浮かべ、カリカワ(木材流送)の真似をして遊んだのである。

 紙漉きの里は、また林業の里でもあった。男の子たちは十四、五歳にもなれば、当然のこととして、杣(そま)や木挽きやカリカワなど山の職人の世界へ入っていったのだ。

 私の母方の祖父もじつはその山保田の出身である。はじめは木挽職人だったが、村を離れてからは炭焼きとなり、おもに熊野川流域の山小屋を転々と渡っている。

 私がものごころついたころ祖父はすでに亡かったが、父母は四滝谷(したきだに)(熊野川町)という所で炭を焼いていた。

 炭焼きの子の遊びは、やはりママゴトの炭焼きであった。

 窯の横にある木寄せ場で、小石を並べて小さな窯をつくり、中に枯れた木を入れて火をつけた。その近くでは父が炭木(すみぎ)を割ったり、母が俵に炭を詰めたりしていた。

 父が太い木を割るときには、私にも楽しみなことがあった。中に棲んでいる虫(カミキリの幼虫)に期待したのである。斧や金矢(かなや)(くさび)を入れると、割れめから五、六センチの白っぽい虫がぽろりと地面に落ちた。さっそくそれを拾って窯の熾(おき)にくべた。

 虫は熾の上でぴーんとそりかえりながら膨らみ、じきにぷしゅっと音をたてて裂けた。それでもう食べられるのだった。

 木の中に棲む虫は甘くて香ばしかった。


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