Vol.41 [20002/05/08]
マギノ村へ(2)
木村迪夫さんは1973年4月から出稼ぎをやめて、ゴミ屋を始めた。市がゴミ収集業務の直営事業を廃止して、民間委託に切り替えた。その民間委託業者の一人になった。木村さんは、1台のゴミ収集車を奥さんと仕事仲間の3人で稼動させ始めた。前年の72年11月に「日本農村活動家訪中団」の一人として、文化大革命さなかの中国を訪問した木村さんは、このゴミ車の名前を「人民服務号」と命名した。百姓を続けていくための兼業だった。
1975年6月からは、ゴミ収集も農村部地区も含めるまでに拡大され、木村さんも一気に3台の収集車を持つことになる。そのうちの1台の運転手にはすでにマギノ村に移転していた小川プロのメンバーの林鉄次さんがあたった。小川プロの生活費稼ぎである。
ゴミ収集車が3台になったことを契機に会社名を「北方清掃社」とした。この名づけ親は小川プロの飯塚俊男さんだ。飯塚さんの頭には戦前の生活綴方と社会科学との結合を目指した北方教育運動のことがあったに違いない。木村さんは、村山俊太郎、国分一太郎、真壁仁などの先人たちの所業を思い浮かべ、瞬時にこの社名に決めた。「しかし、いまはこの社名から、北方教育運動を連想する人はめったになく、多くのひとはキタカタと読み、かなりの人が北方領土との関連をいう始末」と木村さんは苦笑する。
木村さんは、上山農業高校定時制に通うときに、同級生と同人誌『雑木林』を始める。以来、11冊の詩集を出し、現在詩誌『山形詩人』の発行代表者、『地下水』の同人である。山形県詩賞、晩翠賞、真壁仁・野の文化賞、斎藤茂吉文化賞などを受賞している。
その高校時代に同級生で同人誌仲間に佐藤藤三郎さんがいる。山形県の山元村(現・上山市)の山元中学校の2年生43人が書いた生活記録文を青年教師無着成恭が編集、国分一太郎の紹介で東京の出版社から1951年に『やまびこ学校』として出版され、ベストセラーとなる。この本は、戦後の民主主義教育の記念碑となった。ご存知のように佐藤藤三郎さんはこの43人の中学生の一人だ。
1973年の8月、真壁仁、木村迪夫、佐藤藤三郎らは「山形、三里塚の記録映画をみる会」を発足させ、のちの小川プロのマギノ移住につながる交流が始まる。
「今年の年越しから元旦にかけては、ついに小川さんと小川プロダクションの姿がない正月となってしまった。『めっぽうお参りが少ないねー』夜明け際の寒気に身をふるわせながら、現部落会長のフサアキさんが呟く。山形の詩人・真壁仁さんが亡くなったとき、清水哲男さんは、『淋しい山形よ』という詩を書いた。小川紳介さんが永遠にこの村に帰って来ない今、『淋しい牧野村』と心の中でうたっているのは、わたしばかりではない」(木村迪夫「淋しい牧野村」、『映画新聞』1993年2月、第95号)。
そしてそれから、さらに10年過ぎた。今のマギノのことも木村迪夫さんに語ってもらわなければならない。
参考文献:
木村迪夫『収集車「人民服務号」』、1993年、社会思想社(初版は『ゴミ屋の記』1976年、たいまつ社)
映画新聞編『小川紳介を語る』1992年、フィルムアート社
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