vol.28
四谷三栄町耳袋(7) [2001/10/26]
ラッコとガラス玉
大阪の国立民族学博物館で特別展「ラッコとガラス玉──北太平洋の先住民交易」が9月20日から開かれている(2002年1月15日まで)。これは、北方諸民族は狩猟民族、漁猟民族であるという従来のイメージをくつがえし、かれは狩猟漁猟民族であるとともに、積極的な交易者であったことをモノを通して歴史的な視点で提示したものだという。
「ラッコとガラス玉」という展示テーマ名は可愛いが、なかなか奥深い内容の展示のようだ。北太平洋の海洋資源は豊富で、かつてはラッコ、クロテン、ホッキョクギツネなど、上質の毛皮をもつ動物たちの宝庫だった。
デンマーク生まれのロシアの探検家ベーリングは、1725年から始まった最初のカムチャッカ探検の隊長をつとめ、まずアジア大陸とアメリカ大陸の間の海峡(のちのベーリング海峡)を確認した。そして、33年から始まった第2次のカムチャッカ探検隊で再び隊長となったベーリングは、41年7月17日に,ついにアラスカの海岸に到着した。ベーリングは帰途、無人島(のちのベーリング島)で病没したが,42年にベーリング隊が帰国したときには、記録によると実に900枚のラッコ皮を持ち帰り、巨利を得たという。
ラッコは当時すでに最高級品の毛皮としてヨーロッパでは、大変な経済価値があって、ベーリングたちの探検も「地理上の発見」の衝動より、きわめて経済的な目的のため、つまり「ラッコ皮(を狩猟する先住民)を探してこい」という、ロシア皇帝厳命の旅だったのだ。
北太平洋の先住民たちは、ラッコの交易によって、はるかヨーロッパで造られたガラス玉を手に入れて、そこに独自の価値を見出してさまざまな美術工芸品を造りだす。ガラス玉1つとラッコ皮1枚の交換から、ここに資源移動の長い二つの道、「ラッコの道」「ガラス玉の道」がうまれ、さまざまな交易世界が繰り広げられた。
「ラッコとガラス玉」展を中心的に進めたのは,民博の大塚和義教授だ。大塚さんは『草原と樹海の民』『アイヌ 海浜と水辺の民』の著者だ。アイヌを中心にサハリン、アムール、シベリアにおける北方諸民族の民族学的研究をしてきた。この特別展は大塚さんのさらなる世界像の拡大による、研究集大成の発表の場だ。
この特別展の解説書の冒頭見開きに「19世紀初頭の北太平洋地域における産物と交易ルート」と題するカラーの絵地図がある。ベーリング海峡を中心にすると,どのような世界が描かれるか、北の世界から日本列島がどのように見えるかがわかって非常に興味深い。それは,かつて網野善彦さんが、シベリア,朝鮮半島から日本列島を俯瞰した「環日本海諸国図」(「日本海」は大きな「内海」だった)をわれわれに見せてくれた時のショックとよく似ている。
北方先住民の自立的交易の歴史的な見直しは大切なことだ。しかし、いま子供たちに大人気のラッコ受難の歴史について触れなければ、あまりにもラッコがかわいそうだ。もちろんそれはこの特別展の任務ではない。
愛すべきラッコたちはその発見から150年間にわたりすさまじい乱獲にあい、ほぼ絶滅状態となった。日本でも明治時代に男物の「らっこ帽子」や「らっこエリ巻」が流行した。
1911年(明治44年)にようやく国際条約により保護され、日本の水族館へ送られてきたのは、ほんの最近、1983年末のことである。
チンドン・パンク・ジャズ・ヂンタ
いくつかの本について。
大道芸人であり、フリーの編集者でもある上島敏昭さんが編集長をつとめる月刊紙『大道芸アジア月報』がある。A4判のペラ2頁の小さなものだが、すでに123号まで出ている。東京中心だが大道芸の情報誌になっている。その最新号で目にした記事2つ。1つは8月29、29日に大阪で開かれた第2回全国ちんどん博覧会。実行委員長の林幸次郎さんの獅子奮迅の活躍で大成功だったとのこと。ジャズサックスの梅津和時も参加したようだ。
もう1つ。新刊の紹介にあったのが,大熊ワタルの『ラフミュージック宣言 チンドン・パンク・ジャズ』(インパクト出版会)。さっそく、版元から手に入れる。クラリネット奏者でチンドン楽士でもある著者の音楽放浪記。多岐にわたる内容だが、第1部の「路上の世界音楽」の「チンドン・ヂンタ・楽隊」はよく調べていて読みごたえがある。芦原英了の『サーカス研究』にも目を通しているのが、うれしい。こんど、百科事典のチンドン、ヂンタ関係の項目は、彼に書いてもらおう。
音楽ものの本といえば、高田渡の『バーボン・ストリート・ブルース』(山と渓谷社)。この飲んだくれのミュージシャンが、深川の塩崎の父子寮で暮らしたことや、中学を卒業して最初に就職したのが,アカツキ印刷であることを知った。そこで文選工(わかるかな?)として,『赤旗』(当時は『アカハタ』かもしれない)の紙面を組んでいたそうだ。最近これほど、のんきに気持ち良く読めた本もない。ちなみに書名は1977年に出したアルバム『ヴァーボン・ストリート・ブルース』から、もってきた。これは、ニューオリンズにある通り名。沢木耕太郎の『バーボン・ストリート』が出たのは1984年だから、高田渡の勝ちだ。
ついでに、『ペヨトル興亡史 ぼくが出版をやめたわけ』(今野裕一著、冬弓舎)。しかし,これは津野海太郎氏ほかが、いろいろな新聞の読書欄でも紹介しているので、私があえてここでふれることもない。しかし、20世紀のサブカル出版界を回顧するとき、今野のペヨトル工房は松岡正剛(『遊』の工作社)、斎藤慎爾(深夜叢書社)、中野幹隆(『エピステーメー』)などと一緒に論じられる人(書物)に間違いあるまい。
参考資料: |
『大道芸アジア月報』(坂野比呂志大道芸塾[浅草雑芸団]機関誌)
連絡先:TEL/FAX. 03-3444-0825(上島) |
|