vol.20

四谷三栄町耳袋(5) [2001/08/08]


今週末も八ヶ岳南麓。今回は久しぶりに鉄道で行った。日帰りだったが、滞在時間正味6時間、そのうち2時間半のバーベキューも楽しんで、たくさんお酒も飲んで、おまけに帰りの車中で寝ることもできた。あの中央高速の大渋滞を考えると不思議な気分になる。これも老犬に留守番をお願いして実現出来たので、彼におおいに感謝しなくては。2時間弱で新宿から小淵沢に到着。小さな駅前はいつもよりなんだか人と車で混雑している。しばらくすると例のアウトレットの送迎バスがやってくる。タクシーの運転手は、アウトレットは駐車場が足りないので「中よりも、その前がすごく混んでいる」と解説してくれた。

普段着のガラス

高原イラスト館八ヶ岳で、ガラス工芸家の舩木倭帆(ふなき・しずほ)さんのお話を聞く会があった。舩木さんのさまざまなガラス器に囲まれながら、外に大きく開け放された部屋からベランダまで椅子を置き、30人ぐらいのひとが舩木さんを囲んでお話を聞く。舩木さんは1935年(昭和10年)島根県生まれ。実家は今でも兄が玉湯町で布志名焼(ふじなやき)の窯元、舩木窯を営んでいるそうだ。地元の大学を出て、大阪の清水硝子製造所に就職。その後、1968年に東京蒲田の各務クリスタル(現・カガミクリスタル)(1)に転職。この頃、アメリカでスタジオ・グラス運動が起きている。

(1) 各務クリスタルは日本のガラス工芸作家の草分けで、岩田藤七とならんで活躍した各務鉱三が1924年(昭和9年)に創立した各務クリスタル研究所が発展した会社。

その後、九州民芸村(北九州市)に移り、現在は広島県深安郡神辺(かんなべ)町に住む。工房は「グラスヒュッテ」と名付けた。「私の工房には機械はもちろん、道具らしい道具も特別な設備もありません」

舩木さんは吹きガラスでガラスの雑器をつくる。日本の暮らしに馴染むガラス器、毎日の食卓にすっと調和するガラス器を作りたい。使いやすい、美しく食べやすい器。これをテーマにずっとガラス人生を歩んできた。日用雑器としてのガラスを作ってきたので、ワイングラスなどの価格は20年間ずっと据え置いたままだという。

「日用雑器は毎日使われる普段着です。うつわ作りは作り手の仕事が半分、残り半分は使い手が毎日生かすことです」(2)「吹きガラスはどれも均一に同じものができない。それぞれが固有の形をもっている。だから、私は追加注文が受けられないのです」

(2) 日常雑器の中に「用の美」をみいだした柳宗悦(やなぎ・むねよし)のことばを想起する。柳は1931年に創刊した『工芸』の「民芸とは何か」中でこの雑誌は民衆の用いる日常の用具雑器つまり「普段使(ふだんつか)い」をとり扱うのだと書いている。

「わたしの作るガラスはかなり肉が厚く、ある人はその厚みを〈舩木厚み〉と呼び、口に触れる感覚がとてもいいという。これは意識して作るというより、吹きガラスの成形では自然の成り行きなのです」「この仕事を僕は何年もやっていますが、いまだに自分の思いどおりにできたためしがありません。これからも、ガラスを自由に扱うことはぜったいにできないでしょう」(3)

(3) 舩木さんは本の中で、「吹きガラスは英語でfree blownという。freeなのは作り手ではなく、実はガラスがfreeなのだ」といっている。

参考図書: 『普段着のガラス ― 舩木倭帆 吹きガラスのうつわ』1999年、芸艸堂(うんそうどう)  
私は旅ガラス』:1960年代にアメリカでスタジオ・グラスの運動を始めたリトゥルトン、デイル・チフリなどを知るには大いに参考になる。

参考URL: カガミクリスタルhttp://www.nsg.co.jp/crystal/company/company.htm
高原イラスト館八ヶ岳 http://www.illust-kan.co.jp/2001(URL省略)


消える編集者、引きこもる編集者

90年代半ば以降に「論壇誌」に書いてきた文章をまとめた、大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』(2001年、角川書店)には、「編集者である、ということ」という文章がある。

この20年、じつは編集者の仕事は電子メディアの恩恵で驚くほど楽になっているという。手書きの原稿の清書や赤入れ、入稿のためのさまざまな指定を書き込み、頁の設計化を図ることもない。原稿取りの場合でもFAXで済ませ、ゲラ(校正)もFAXでおくり、FAXで返してもらう。イラストや図版はバイク便を使う。これはかなり極端な例で、だとすれば大塚氏担当の編集者はほんとうに楽だ。

「インターネットというメディアを編集者が恐れなくてはならないのは、それが最終的に編集者を消滅させうるメディアだからだ」誰でもが自分で書いた文章を自分で編集してホームページで公開することが、瞬時に平等に可能なのだ。作家によっては、ホームページで編集者を介さない作品を公開している例もある。「電子メディアの普及に伴う編集技術の大衆化は、出版の世界から『本』でなく、『編集者』を消滅させようとしている」

ここはいい指摘だ。しかし、大塚氏も実はよく知っていることだろうが、編集者は以前よりまして一層忙しくなっている。よりin house 的編集者となって、忙しくとても外に出られない。さらに、次の指摘は重要だ。

「かつて編集者は書き手が自らの言説を市場に流通させる際の壁として機能していた。つまりその書き手や書き手の著作を世に出すべきか否かを判断するのは編集者」であった。「編集者抜きのメディアの成立は、そういったジャッジする役割を果たす機能の喪失をも意味する」という。

では、この時代に編集者でありつづけることは、どういったことなのだろうか。いま、編集者は、一方で限りなくスッタフライターに近づき、一方で限りなくテキストプレッパーに近づきつつある、ようにみえる。ひたすら埋め合わせ原稿を書いて原稿料をうかし、DTPに精を出して原価を下げようと努力して、かつては印刷所の仕事だった領域に深く入り込んでいるのだ。

あきらめない編集者は装丁に走る。しかし、朝日新聞出版局のPR誌『一冊の本』(2001年8月号)の特集「本とデザイン」を読んでみると、ここにも編集者の居場所がない気がする。佐藤可士和、祖父江慎、中島秀樹、原研哉など6人が発言。どうやら、本をプロダクトとして考えているデザイナーは、もはや最初から編集者を相手にしていない。

やたらに来るDMも最近、中身が変わった。前だったら、電子編集講座のようなものが多かったが、いまは、「こんな企画では売れない」といった、出版評論家やタイトルの良さ(?)でヒットを飛ばしている出版社社長を講師に招いた営業企画セミナーのたぐいが多い。編集者抜きの企画養成。その意味で象徴的なのは、いまや出版界を彷徨う名物編集長、正味期限1年未満男、花田紀凱を迎えて創刊した『編集会議』(1)(最新号は創刊6号、2001年9月号、宣伝会議)だ。ここの主要読者は業界人なのか、それともマスコミ志望の学生なのか。いずれにしても「出版芸能誌」いや「芸能出版人誌」の誕生ということか。ここでも芸のない編集者は救われない。

(1) 『編集会議』の9月号の特集は「女性編集者の理想と現実』

参考URL: 『一冊の本』 http://opendoors.asahi-np.co.jp/span/issatu/
宣伝会議 http://www.sendenkaigi.com/web_pub/2001/2001_09.html

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