vol.18

金次郎とマッカーサー [2001/07/25]

ものすごい暑い夏、2001年の7月。この眩しいばかりの陽が注ぐ午後、けだるい気分のまま、いま評判の昨年ピュリツァー賞受賞したジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(2001年、岩波書店)を読む。手元には、この本の装丁をした赤崎正一さんが、先日事務所を訪ねてくれ、その折りお土産にとくれた下巻だけがある。その下巻を読む。

私は戦後生まれだが、記憶にあるのは小学校(幼稚園はその頃いた村にはなかった)に入学した後のことで、この本が描いている時代はほとんどまったく知らない。自分が生きていたのに、まったく知らない時間。1945年8月15日より始まる敗北・占領から主権が回復した1952年4月28日まで。その間にいまの社会システムがすべて誕生しているのに。その社会環境をいわば天与(池澤夏樹、毎日新聞2001年7月1日、同書書評)のものと思って育った世代である。

本当は死んだ父からも、小学校、中学校の先生からも、会社の先輩からも聞いておくべきだった。その時代がどうであったかと。今、ダワーというアメリカ人、非日本人の歴史家から、かつての近代化論の手法でなく、あらゆる材料と方法を駆使し、大文字の概念でなく、小文字で複数形の言葉を意識的に使った(中村政則、「『無名の民衆』『天皇』の実像」、2001年7月14日、朝日新聞夕刊)記述で、改めて教えられる、この戦後の日本。来年には今年ピュリツァー賞受賞したハーバート・ビックスの『裕仁と現代日本の形成』も講談社から翻訳出版される。

戦後の占領期における研究は進んでいる。平野共余子(きょうこ)の力作、『天皇と接吻──アメリカ占領下の日本映画検閲』(1998年、草思社。原書の英語版は1992年)については、ダワーも「占領下の映画に関する基本的文献」として引用している。もっとも、上巻p.387の注(42)の平野『天皇と接吻』と下巻p.461の注(47)Hirano, Mr.Smith Goes to Tokyo は同じ本だが、説明がない。それより(岩波書店に)不満なのは、大部の本なのに、しおり(スピン)がない。訳注が大切な本、たえずひっくりかえして読むのに不便この上もない。岩波はいつからスピンをケチルようになったのか。ぜひ佐野眞一氏に調べてもらいたい。

井上章一の『愛の空間』(1999年、角川書店)は、近代日本の性愛空間を考察した快著である。この本に戦後の占領期における愛の空間事情が報告されている。マッカーサーがいたGHQ(第一生命ビルが接収された)の前に広がる「皇居前広場」は巨大な野外性愛の空間だった。東京の町では米軍の空襲のため、旅館やホテルなど大半が焼けていた。占領軍兵士たちが屋外で繰り広げる大胆な性行動(もちろん大胆なのは日本女性もだが)を目の前にして、徐々に日本カップルも大胆になってきた。若いカップルはだれもが、どんな小さな物陰でもさがし求めて東京中を徘徊していたのだ。

「ここは壮大な恋愛道場であった。この幾万坪かの広大な地域のすべての木陰、すべての草むら、すべての物陰、すべての小暗い場所は例外なく一組の若い男女によって占められていた──人間の試みうるあらゆる恋愛のポーズがここに展開されていた──」(八木義徳『美しき晩年のために』1948年、井上『愛の空間』p.12)。この「噂の皇居前広場」のことは、ダワーは触れていない。この皇居前広場が「血のメーデー」の現場として歴史にその名を残すのは、日本独立の3日後の1952年5月1日のメーデーである。

井上章一はかつて『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(1989年、新宿書房)で、GHQと金次郎像の関係について論じたことがある。GHQは日本の民主化を押し進めるために、これを妨げる要素については極力これを排除した。その新しいタブーの取り締まりについては、ダワーの本でも詳しく述べられている。井上によると、ダワーの本にも出てくるCIES(民間情報教育局)の新聞課長、ダニエル・インボーデン少佐が、1946年9月4日に小田原の二宮神社で行われた二宮尊徳祭に出席し、のちに「新生日本は二宮尊徳の再認識を必要とする」というタイトルの文章まで書いているという。

いや、太平洋戦争末期にB29から撒かれた米軍のビラ(伝単)のなかにも二宮尊徳の肖像があったという。井上はここから、なぜ、米軍が尊徳を平和と民主主義のシンボルとして扱ったかを推論していく。結末は本を読んでいただくとして、ともかく、日本の学校の校庭にある金次郎像はごく一部の過剰反応をした例をのぞいて、無傷のまま残り、戦後の民主主義教育の推移を眺めていく。

ダワーとビックスの二人は、それぞれが集めた資料を相互に提供しあって、叙述を豊かにした(上巻、「謝辞」)という。ダワーの本は社会風俗へと平板に流れることなく、マッカーサー支配の時代の日本人の生き生きした姿を歴史的に活写した傑作である(佐々木力、bk1書評)。敗北から背をむけ、まさに感情に流されるままに書かれた歴史教科書が文部科学省で教科書検定合格を受けたこの年、記憶される本となった。

<参考URL>
毎日新聞「今週の本棚」
http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2001/0429/07.html
bk1書評(佐々木力http://www.bk1.co.jp/ (URL省略)

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