vol.16

如月小春は広場だった [2001/07/18]

如月小春(本名は楫屋正子/かじや・まさこ)さんは昨年2000年12月7日に、立教大学の講師控え室でクモ膜下出血を起こし意識を失い、そのまま一度も意識が戻ることなく、12月19日6時30分に亡くなった。享年44。

12月21日にお通夜、22日に葬儀が武蔵野市の延命寺でそれぞれ執り行われた。葬儀委員長は作家の黒井千次さん。告別式では劇作家の永井愛さんや音楽家の高橋悠治さんら友人たちが弔辞を読んだ。高橋さんの弔辞(23・弔辞をご覧ください)や喪主の楫屋一之さんの挨拶のなかに二人がまるで申し合わせたかのように引用した彼女の言葉があった。

都市
ソレハ ユルギナキ全体
絶対的ナ広ガリヲ持チ 把握ヲ許サズ 息ヅキ 疲レ 蹴オトシ
ソコデハ 全テガ 置キ去リニサレテ 関ワリアウコトナシニ ブヨブヨト 共存スルノミ
個ハ 辺境ニアリ
タダ 辺境ニアリ
楽シミハ アマリニ稚ナクテ ザワメキノミガ タユタイ続ケル
コンナ夜ニ 正シイナンテコトガ 何ニナルノサ

一九八〇 ― 八一・TOKYO

都市のなかで育ち、都市の精神を発信し続けた彼女の代表的なフレーズである。この言葉は延命寺にある如月小春さんの真新しいお墓の墓銘として刻み込まれている。

如月小春さんが亡くなって、数多くの人々が彼女の仕事と生涯についてふれた。とくに印象に残るのは今野裕一(ペヨトル工房)と小崎哲哉(REAL TOKYO)のものである。今野のコラムでは土方巽と寺山修司と彼女の出会いが語られて興味深い。

参考URL: 追悼・如月小春 http://www.tctv.ne.jp/members/peyotl/editor.html
如月小春と00年代  http://www.realtokyo.co.jp/japanese/column/ozaki06.htm

演劇評論家の西堂行人(にしどう・こうじん)は「如月小春~都市のなかで演じる」を書き、彼女の演劇を中心とした人生とマルチな仕事ぶりを極めて明瞭にスケッチしている。(1)

(1) 季刊『PT パブリックシアター』、「ドラマティストの肖像(12)」、第12号、2001年7月、れんが書房新社

西堂は演劇の「第三世代」の一人を担ったはずの如月小春さんが、早くから小劇場のシーンを離れ、音楽や美術や音楽とのコラボレーションの空間の構築へと移って行った20代、結婚、出産という出来事を迎えた30代、そしてこどもの演劇ワークショップとアジア女性演劇会議を推進した40代までの軌跡を次のようにいう。

二十代の如月小春は「利発さのなかに繊細でガラス細工のように壊れやすさを同居させていた」が、三十代の彼女は「傷つきやすさはすっかり影を潜め、たくましい運動家の姿にとって代わられた」のである。
表現者にとって三十代とはさまざまなことが積み重ねられ、発酵状態にまで煮詰まっていく時なのだろう。そして、それが炸裂し、具体的な成果として現われてくるのが、四十代なのだ。表現のことだけを考えてキラキラとしていた「芸術家」は、やがてその影響力や演劇の社会的位置を何とか確立していこうと腐心する「運動家」へと転身していくのである。

だからこそ、「こどもの館」のワークショップやアジア女性演劇会議のオルガナイザーをへて、もう一度演劇の世界へ戻ろうとしていた矢先の如月小春さんの死は、ほんとうに惜しまれる。彼女は暖かい小春日和の広場を設けて人と人を繋げる役割を演じながら、一方で演劇への回帰も模索していた。彼女は2001年の12月に世田谷のシアタートラムで『カガヤク ― 長谷川時雨素描 ― 』を上演するはずだった。しかし、この作品はついに一行も書かれなかった。

新宿書房では、『如月小春戯曲集』(1982) 『工場物語』(1983) 『DOLL』(1985、1992に『DOLL/トロイメライ』に)、『MORAL(モラル)』(1987)、『NIPPON CHA! CHA! CHA!』(1988)の6册の本を刊行してきた。

新宿書房が、西新宿の桜映画社の一隅に仮住まいしていたころ、最初の本の打ち合わせで、事務所にきてもらったことがある。当時の本名は伊藤正子。如月さんはそのころ25歳。輝くように美しかったが、戯曲のシャープで硬質な文体からは、想像もできない、育ちのよさゆえの飾らない性格をもつ礼儀正しく謙虚なひとだった。

新宿書房では、2001年12月の一周忌にあわせて、新たに2册の本を企画している。それは、『如月小春代表戯曲集』(仮)と『如月小春は広場だった』(仮)の2册だ。

『如月小春代表戯曲集』は「ロミオとフリージアのある食卓」「家、世の果ての…」「MORAL」「MOON」「夜の学校」「A・R ― 芥川龍之介素描 ― 」という、各時代を代表する6作品と各作品の解題(外岡尚美)、総解説(西堂行人)、如月小春戯曲年譜などで構成される。

『如月小春は広場だった』は、演劇を中心に様々なジャンルで活躍した如月小春さんを、それぞれの分野で関わりの深かった方々が回想する、「如月小春の仕事と出会い」の本だ。野田秀樹、川村毅、渡辺えり子などの第三世代の人々をはじめ、吉見俊哉、坂本龍一など、60人を超える人々の寄稿がある予定。如月さんの発言やコラムのアンソロジーやスナップ写真、自筆ノート、詳細な如月小春年譜なども収録される(2)

(2) 『如月小春は広場だった』編集委員による刊行のためのよびかけ。

『如月小春は広場だった ― 60人が語る如月小春』刊行のために

 私たちの友人であり、演劇界や日本の文化にとってもかけがえのない存在だった如月小春さんが、昨年12月、突然帰らぬ人となってしまいました。これからますますの活躍が期待されていただけに、私たちの哀しみは深く、失ったものの大きさにただ呆然とするばかりです。

 如月さんは生前、実に多彩な活動を展開し、マルチな才能をさまざまな分野で発揮されました。彼女の出発点であり、つねに変らぬ表現の軸としていた「演劇」をはじめ、「都市」や「身体」についての考察、「教育」や「文化行政」に対する発言、他芸術との交流、そして「女性」や「アジア」へ向けられた視線。そのいずれをとってみても、何人にも及ばぬ域へ達していたことがわかります。

 そこで如月さんの仕事を広く検証するとともに、彼女が果たしてきた役割を近傍にいた表現者や親しかった方々に語っていただこうという主旨で、一冊の書物を企画しました。題して『如月小春は広場だった』。これは劇作家・永井愛さんが如月さんへの追悼文に寄せた言葉ですが、彼女を形容するにこれほど簡にして要を得たキャッチ・フレーズもないでしょう。如月小春さんは、まさに人々が慕いながら集う「広場」だったのです。彼女を仲介役としてさまざまな出会いとコラボレーションがあり、いつもそれを柔らかく包みこむ如月さんの温かいまなざしがありました。

 私たちは如月小春さんという現代が生んだ稀有な表現者のさし出してくれた贈りものを後世に伝えるとともに、その未完の仕事を引き継いでいきたいと思います。その一つの試みが本書の出版です。

 それとともに、現在私たちは『如月小春代表戯曲集』(仮)を鋭意編集中です。生前に発表された戯曲作品から6編を精選し、解題・解説を付して、再び世に問うつもりです。

 たいへんお忙しい季節かとは存じますが、如月小春さんと深い関わりのあった皆さまに、是非ともご協力をお願いする次第であります。

2001年7月5日

編集委員
西堂行人
外岡尚美
渡辺 弘
楫屋一之
(順不同)

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