(23)NGO
[2018/6/11]

 事情により、長く勤めることはかなわなかったが、今振り返っても、面白かったな、ユニークだったな、と感じる職場で3年半ほど働いた。あるNGOに就職したのは、前にも書いた、英字新聞社でのごく短い期間での最初の仕事に続く、20代後半の頃だ。わたしにとって、人生二番目の仕事だった。

 その小さなNGO(Non-Governmental Organization 非政府民間組織)で働きたいと思ったきっかけは、実はアメリカ留学時代のある体験にさかのぼる。福岡にある私立大学を卒業後、すぐにハワイ大学の大学院に入学した。1970年6月はじめのことだ。幸いにも、2年間の奨学金を得ることができたのだ。途中、アメリカ本土を旅行したり(フィールドトリップと言ったほうがカッコいいかな)、サマーセッションをどこか好きな大学で受けることもできるという、なんとも寛大でぜいたくなアメリカ政府の奨学金制度だった。

 旅行は、フィリピン人の女性ふたり、エリーさんとジー(ヴァージニアの愛称)さんといっしょに回った。最初の目的地は、カリフォルニア州のオークランド。エリーさんは、公衆衛生を専攻する女性で、背の高い細身のインテリ。彼女には、オークランドで1日見学したい施設があるという。もうひとりのジーさんとわたしは、その日、特に行きたい所もおもいつかない。そこで、エリーさんの視察に同行することにしたのだ。

 そこは、Planned Parenthood Clinicと呼ばれる所だった。日本語でいうと、家族計画クリニックということになるだろうか。わたしには、それが何の組織なのか、建物なのか、かいもく見当もつかない。Planned parenthoodって、いったい全体なんのことだ。「計画的に親になる」? それって、なに? 全く予備知識もないまま、ただフラリとついていっただけにすぎなかった。が、そこでの体験と見学は、わたしに強烈な印象を与えるものとなった。

 わたしたち3人はまず、グループセッションを見学した。数組の参加した若いアメリカ人男女のカップルが、専門家(カウンセラー)を丸く囲む形で椅子にすわる。トピックは、ズバリ、避妊。いかに望まない妊娠を防ぐかという話題だ。子供は望まれた時に、望まれて生まれてくるのが、親にとっても子供にとっても理想的で幸せなことなのだ、と当たり前のことが説明される。

 参加している男女は、既婚の夫婦もいれば、これから結婚するというカップルや現在同棲中の人たちも含まれている。カウンセラーの女性が、透明なプラスチックでできた人体の一部(女性の生殖に関係する部分)を手に、いくつかの避妊方法を具体的にデモンストレーションしながら、説明してくれる。膣の部分に、避妊用のゼリーが塗られたときだった。ひとりの若い女性が、フーッと気を失った。あまりに生々しかったのだろうか。あれれ、アメリカ人の若い女性も、案外ナイーブなんだな、なんて思ったことを記憶している。

 時代は、フェミニズム運動の大波がアメリカ社会を飲み込んでいこうとする、まさにその時。オークランドにあったその民間のクリニックは、とりわけ有名で、国内外を問わず、多くの見学者が絶え間なく訪れる、家族計画における最先端の場所だった、とは後で知った。

 このクリニックには、医者、看護師、カウンセラーなどが常駐しており、必要に応じて、避妊の知識やサービスを提供していた。グループセッションの後、見学させてもらったのは、診察室。まだ10代後半とおぼしき若い女性が、診察台に横たわり、男性の医者と親しげに話をしている。ロングスカートに長い髪の毛、当時カリフォルニア州の、いえ全米中の若いアメリカ女性たちの典型的な制服みたいな恰好の女の子だ。「あのね、今度、ボーイフレンドと旅行するの。どの方法がいいか、教えてもらおうかな、と思って」みたいなことを、さらりと告げている。お医者様も「そうだね、何がいいかな・・・」みたいな調子で、わたしたち部外者がいようがいまいが、まるで気にならないあけっぴろげな会話。

 こんなプログラムを一日見学させてもらったわたしは、ここはなんてオープンで隠しごとのない、さわやかな場所なんだ。男女が自由に出入りして、必要な避妊に関する知識やサービスを受けられる便利さ。こんな世界があるんだ、と目をみはる思いだった。日本にもこんな場所が、はたしてあるのだろうか。

 そして、わたしは思った。そうだ、日本にもどったら、女性のためになる仕事につけないものだろうか。世のため人のため、と言っては大仰だが、社会の役に立つ所で働いてみたい。ついでに英語も活かせる所、そうすれば奨学金を出してくれたスポンサーに少しでもお返しができるかもしれない。

 数か月後、アメリカ各地への旅行とノースカロライナ州でのサマーセッションを終え、ハワイ大学での勉強にもどった。そこでわたしに、もうひとつの出会いが待っていた。東京にある家族計画と人口問題に関する国際援助協力を推進するというNGOで働いている、日本人女性Kさんがいたのだ。彼女もわたしと同じ奨学金をもらい、大学院でいくつかのコースを勉強中だった。Kさんは、わたしよりも10歳年上。社会経験もなく、帰国後の進路に不安を抱くわたしの相談にも、気軽に乗ってくれた。日本にもどったら、ぜひ東京の彼女のNGOを訪ね、ボスに仕事の依頼をするようにとアドバイスしてくれた。

 帰国後、さっそく東京の市ヶ谷にあるそのNGOを訪ね、わたしに仕事をください、と直接お願いした。「うーん、雇ってあげたいのはやまやまだが、残念ながら、今あらたな人を雇うだけの予算がない。」これが、そのときの返答だった。がっかりしたが、なんとなく、これでおしまいではなく、まだ今後チャンスが巡ってくるかもしれない。そう楽観的に思い、わたしは当座の食べていくための仕事をさがしはじめた。それが、前に書いた、英字新聞での編集助手の仕事だったのだ。

 やがて、その時がやってきた。予算がついたらしい。わたしをNGOで、雇ってくれることになった。そこは、20名ばかりの若い男女スタッフがいるだけの、小さな団体だったが、国際的な興味深い活動を推進している職場だった。わたしも、できる限りの英語力を駆使して、アジアからの参加者のためのセミナーの手伝い、アジア各地の視察旅行での通訳、英文月刊誌の編集と発行など、さまざまなおもしろい経験をさせてもらった。タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、インドを訪れる機会もあった。さらには、いい仲間たちに恵まれた。そこでいっしょに仕事をした優秀な女性たちとは、今でも、ときどき集まっては、昔話に花を咲かせながら楽しいときを過ごす。

 長い話になったが、20代後半のわたしの仕事シーンは、こんな具合だった。今思えば、これと狙いを定めた仕事を獲得することに対して、その頃のわたしは、案外、貪欲で大胆だったようだ。怖いもの知らずの若さはいい。


梅雨時のガーデン