(18)そば
[2017/11/11]

 もし、まもなく死ぬという時が訪れるとして、あなたは何を食べて、この世を後にしたいですか。こんな質問をされたら、わたしは即座に、「おそばを食べたいです」と答える。それも、冷たいそば。できれば、とろろそばか、辛み大根たっぷりのおろしそばをリクエストしたい。

 つい最近、福島県猪苗代町に出かけ、おいしい新そばを食べることができた。かれこれ20年近く、同じおそば屋さんに通っている。と言うと、なんだか、通ぶっていて、いやみったらしく聞こえるかもしれないが、縁あって、長いおつきあいをさせてもらっている。と言っても、今ではせいぜい年に一回訪れるかどうか程度のことなのだが。

 幸いなことに、猪苗代湖をのぞむ、磐梯山のふもとに、仕事の関係で気軽に利用できるすてきな宿泊施設があった。数年前に、残念ながら閉じられてしまったが、愛犬が元気なころは、ワンちゃんに必要な用具類を車いっぱいに詰め込んで、年に数回、出かけたものだった。そのたびに、決まってお昼は、そのお店でおいしいおそばをいただいた。

 猪苗代湖の近くにあるこのおそば屋さん、先代が古民家を移築して、お店に改造されたという。堂々たる藁ぶき屋根のお店に入ると、天井の高さにまず驚かされる。店内は、やや暗めだが、落ち着いた空気がただよい、さあ、これからおいしいおそばをいただけるぞ、という期待感で気持ちが高ぶる。

 偶然おとずれたこのお店のおかみさんに、わたしたち夫婦は、どういう訳だが、最初から気に入られた。たぶん、東京から来たということで、印象的だったのかもしれない。以来、行くたびに、こころよく迎え入れられ、こちらももちろん嬉しい気分になる。以前は、美人のお嬢さんもいっしょに出迎えてくださったが、いつの間にか姿が見えなくなった。なんでも、あるとき、おそばを食べに通ってきていた男性に見染められ、嫁がれたとのこと。

 帰りがけ、わたしは決まって、このお店でおみやげを求める。そば粉を1キロだけ、分けていただく。猪苗代町産のときもあれば、北海道産の粉のときもある。今回は、北海道産の新そばということだった。帰宅すると、阿佐ヶ谷に住む友人のTさんに届ける。Tさんは、そば打ちが趣味。といっても、ほとんど玄人はだしで、以前には、西荻窪で評判のおそば屋さんに修行に通われたほどの腕前だ。このTさん、あるとき、転倒して、手首だか指だかを骨折された。快復後のリハビリに、そば打ちがいいと教えてくれた。趣味と実益を兼ねるとは、このことだ。

 『先祖になる』というドキュメンタリー映画をご覧になっただろうか。池谷薫監督による、2012年の作品だ。監督は、東日本大震災が起きた直後、とにかく何かを記録しておかなければ、との思いで東北に向かう。そして、岩手県陸前高田市で、ひとりの男性に出会う。津波で半壊状態になった家に、ひとり住み続ける77歳の老人だった。奥さんと娘さんは、とても自宅には住めないと、近くの仮設住宅に引っ越してしまっている。老人は、不自由ななか、残った家財道具を集め、3度の食事を作り、ありったけのふとんにくるまって寒さをしのぐ。

 周囲のだれもが反対するなか、老人はひとり、山に入り、木を切り倒し、家を建てるという。その熱意にほだされ、やがて老人の家づくりの手伝いをする近所の人たちが、集まってくる。家づくりのかたわら、彼は農業も再開する。津波で流されてきたがれきの散乱する周囲の荒れた土地に、そばの種をまきはじめる。そばは、貧しい土地にも育つというので、老人は、ホレ、とか言いながら、そこここに無造作に種をまいていく。やがて、そばは育ち、収獲できるところまでに成長していく。もちろん、新居も完成し、今ではドキュメンタリー映画を見た人たちが、頑固一徹、一本骨の通った彼の大ファンになり、全国から訪ねてきて泊まっていくそうだ。

 東京のおそば屋さんで食べるそばは、時に、こんなに気取らなくてもと思わせるほどに、上品で、量も少なめ。これでは、おやつにしかならないな、なんて不満をいだいて、店を後にすることもある。その点、猪苗代町で食べるおそばは、いい。趣味のいい凝った器に、たっぷりのおそばとたっぷりのそば湯が出てくる。ああ、満腹。


会津の紅葉