(17)散歩
[2017/10/9]

 いくつになっても筋肉は鍛えるべし、また、鍛えることが可能である。とは、よくテレビの健康番組などで言われていることだ。でも、わたしは「はい、そうですか。では、さっそくやってみます」と、素直に聞き入れるだけのガッツがない。ジムに行って、マシーンを使うなど、とんでもない。また、ストレッチ教室や体操教室などに参加することも、なんとなく性に合わないし、根気が続かない。

 わたしにとって、とにかく手軽にできる運動といえば、歩くことしかない。ウォーキングというほど本格的なものではないが、時間があり、天候もそれにふさわしい時であれば、近くの善福寺川緑地公園に出かけていく。自宅を出て、環八通りを渡り、お寺にそって坂道を下っていくと善福寺川につきあたる。川の両側に細い歩道が続くこの場所が、わたしのお気に入りの散歩道なのだ。流れを左側に見ながら、ぐるりと小一時間ばかり川沿いを歩く。
 
 特別歩き方に気をつけるでもなく、腕を大きく振るでもなく、とにかく自分のペースで歩く。ただ、それだけだ。特に意識しているわけではないが、以前に比べれば、少しスピードが上がってきているような実感はある。わずかな進歩かもしれない。
 
 歩きながら、わたしは何をする。頭をからっぽにして、無の境地。まさか、である。キザに聞こえるかもしれないが、この時間、わたしは神様とコミュニケーションをしている、つもりだ。もっとも、わたしからの一方的なコミュニケーションであって、決して双方向ではないのだろうが。たくさんの勝手なお願いごと、おねだりを、天の神様に向かってなげかけている。はたして聞き入れられるものなのか、全くわからないのだが。
 
 さて、わたしの最近の楽しみのひとつは、カワセミの姿を見かけることだ。そのために、少し遠くの護岸を常に覗き込むような格好で、歩くことにしている。歩き始めてすぐに出会うこともあれば、今日はもう会えないのかな、と諦めかけている頃、ふっと小さくうずくまったような形の鳥の姿が目に入ってくる。カワセミだ。
 
 遠目には茶色のややぽっちゃりした鳥の姿としか映らない。でも、間違いない。スズメでもないし、ハトでもなく、なんという名の鳥か、常にせわしなく護岸のはじっこを飛び回る白黒モノトーンの鳥でもない。ぎりぎり護岸のへりに、ちょこんと座りこんでいるように見えるのが、カワセミだ。近づいてみると、確かに、背中に鮮やかな濃いブルーの美しい羽が見える。
 
 獲物の小魚を狙っているのか、頭を上下に揺らしながら、川面をじっと凝視している。なぜか、わたしにはその恰好が、フランスだかイタリアだかの映画に出てくる、細長い白いキャップをかぶり、両手を袖のなかに入れて歩くシスターの姿と重なる。歩くたびに、大きなキャップが上下に揺れる。長いくちばしを持つカワセミが、頭を上下に動かす姿が、それに似ている気がする。
 
 時に、カワセミは2羽、並んですわっている。つがいかな、それとも兄弟、あるいは親子。つかず離れず、並んでいるかと思うと、1羽は反対側の護岸にふっと飛んでいく。しばらくすると、またもどってくる。くっついたり、離れたり、遊んでいるのか、運動しているのか。やがて、2羽いっしょに前後しながら、すばやく川面低く飛んでいってしまう。飛ぶ際に見せてくれる、鮮やかに輝きながらふるえるブルーの羽毛。ああ、ここは天国だ。なんて、わたしは嬉しくなってしまう。
 
 わたしには、8月と9月のふた月にわたる長い夏休みがある。もっとも、女子大での非常勤講師の仕事も、いよいよ今年度で終わり。この夏が、わたしにとっての最後の夏季休暇となる。そして、その後は、一層長い人生の休みが待っているのだが。休み中に、川沿いの散歩道で、同じくウォーキング中のK先生に時々会う。女子大の同僚の彼女は、ほっそりとかっこいい筋肉質の女性で、わたしよりもはるかに長い距離を歩かれているようだ。両耳に赤いイヤフォーンをさし、音楽を聴きながら、すっすっと姿勢よく歩かれる。サーモンピンクのぴったりしたジーンズに、薄紫色のTシャツ姿が、よくお似合いだ。出会えば、おはようございますの挨拶をかわした後、ひとしきりおしゃべりを楽しむ。
 
 こんな素敵な散歩道。ワンちゃんを散歩させる人は多いが、ジョギングする人、走る人には、時間帯のせいもあるかもしれないが、あまり出会わない。わたしにとっては、幸いなことだ。なんといっても、カワセミを独り占めできるのだから。
 


今年もゲンノショウコ咲きました。